ルアハの花

番外編

連邦国 灰色の命


 ハリラオスことハリは物心ついた頃から祖国を疎んでいた。殊にその宗教制度を。だからこそ家を捨て思想の自由が保障された無派閥の道を選んだというのに。 
 少女の中で目を覚ました元護衛が開口一番に告げた言葉はこんな言葉だったという。 
「どうせなら、他の女の身体が良かったよ」

*

 王太子リガスの首と共に運び込まれた瀕死の剣士が奇怪な目覚めを迎える少し前の出来事である。
 家長の帰りを待つ王太子一家のもとへ二人の刺客が送られてきた。頚部へ一突き食らった王太子の私生児コリンナは泣き叫ぶ母親に先立って血の海へ崩れ落ちた。ちょうど介抱されていた瀕死の剣士へ覆い被さるように。朦朧とした意識の中、ハリは小さな身体が痙攣し、薄れゆく命の滴を掬い上げようと奮闘する様をどこか愉快な気持ちで眺めていた。
「それでいい。君も、父上の元へ行けるだろう。俺はもう少し後で行くから、先に――」
 嗄れた声で囁き見る影もなく乱れた亜麻の柔糸を撫でてやる。だが物言わぬ瞳のぎらつきは増す一方だった。コリンナの灰目には、むき出しの本能がちらつき、安息を望むハリラオスの胸へ微かなさざめきを起こした。
「私は、死……い、戦……」
 食いしばった小ぶりな歯の隙間から紅が滴り落ちる。咄嗟に男の意識はさやかになった。護り通せなかった主人の最期が主の娘と重なり、元側近は強烈な嫌悪感に襲われた。半分は自分に対して。残りは、存在自体が罪悪感をもたらすこの私生児に対して。優しく頭を撫でていた剣士の無骨な手は自然と白い喉元へ伸びていた。傷口を広げ合う関係は要らない。眠らねば――眠らせねば。
 生きているのが奇跡なくらい惨い刺し痕を刺激すると娘から声にならぬ悲鳴が上がる。加害者は息が詰まるほどの高揚感に包まれ、しかし互いに藻掻きあった。まるで愛を確かめ合うように意識の溶け合う感覚は今際の際に血を沸き立たせる。こんな子供に欲情するなど、と腹の底で嗤ったが、互いの異常な精神を考えれば不思議と合点もいく。少女が討たれてから絶命するまで、その間わずか数十秒、命を吸い合い無駄に垂れ流し合うといった塩梅で次第に力が抜けていき、青年と少女は有機体としての自己を失う前兆である快い睡魔へ意識を手放した。
 それが、物語の結末だと思った。
 少なくともハリラオスはそう願っていた。けれど再度覚醒した時、男は天国でも地獄でもない、眠りに落ちる前と何ら変わらぬ血溜まりと惨状に目眩を覚えた。死してなお夢を見るのか。だが氷柱に共鳴する絹を裂くような悲鳴が否と唱える。母親や侍女が存命であるのを見るに先から数刻も経っていないようだ。
「俺は……これは、彼女の身体か?」
 覚醒した男はコリンナになっていた。身体の下には自分だった屍がぞんざいに転がされている。魂が乗り移ったのだろうか。自分にそんな才能があったとは知らなんだ、とハリは含み笑いを零したが、しかし直感的に間違いだとかぶりを振る。
「彼女に吸われたのは俺のほうか」
 少女の父親は竜血を色濃く受け継いだ特異な家系だった。その血脈に名を連ねるコリンナなら他者の命を吸い傷口を治すなど造作もないことかもしれない。剣士は一時でも娘に抱いた欲情がどす黒い油に侵され憎悪に変わるのを感じた。命を奪われたからではない、精神体としてではあるが二度目の生を与えられたからである。ハリの人生そのものであった主人を喪った悲しみと、胸抉る悔恨の忘失を許さぬ娘の側で意識を保ち続けるなど、これを拷問と呼ばずなんと言おうか!
 ハリは年甲斐もなく幼子のように号哭したかった。ところが四肢の主導権はコリンナにあるようだった。男はただただ横臥し、望まぬ蘇りに放心するしかなかったのだ。だから背後で引き続き主人なき一家が襲われていることを知りえど、前後不覚に聞き流すだけだった――いや、素知らぬ顔でいっそみんな死ねば良いとさえ願っていたのかもしれない。
 事態は思惑の通りに進んでいた。彼が心を閉ざしている間にも刺客は仕事をこなす。コリンナが既にこと切れていると判断を下していた殺し屋は、脇目もふらず残る標的へ襲いかかる。まず侍女である。彼女は短刀を脳天へ突き刺されて事切れた。息つく間もなく末弟が首をかき切られ派手に血潮をまき散らした。流れるような動作で黒ずくめの男たちは最後の獲物へ狙いを定めたが、つと、足早に新しい主人――言わずもがな少女だ――が前へ飛び出し野性的な気勢を上げて刺客の一人を蹴り飛ばした。
 意図して行ったのは彼女。だが華麗な回し蹴りを実行したのは恐らく「彼」だった。長年培ってきた意識を、経験を、コリンナへ好き勝手に使われていることを憤懣やる方なく感じた。けれど少女は風を薙ぐ一閃を避け、片足を軸に反動をつけて強烈な拳を見舞う――もとい前線を切り抜けてきた高度な戦闘能力を誇るハリの前では敵も形無しだった。
「お前、死んだはずでは……なぜ生きてる?」
 苦し紛れに刺客が問う。しかしコリンナは悠々と立ち上がり、
「そうね。何ででしょうね」
 彼女は心底不思議そうに首をかしげた。その様が可笑しくて仕方なかったハリラオスは、
「死んだと思ってた子供が暴れ始めちゃあ、そりゃびっくりしますよねー」と口を差し挟んだ。これにはさすがのコリンナも驚いたと見え、
「ハリ? 貴方なの?」
「みたいですね。ってか、あははっこれ独り言みたいで面白い光景ですよ、コリンナ様」亡者は涼やかな少女の声音で笑い返した。
「ガキ、一人で何をブツブツ言ってるんだ」
「わお。こいつコリンナ様のことガキですって。仮にも王太子のご息女なのに。無礼な輩は斬っちゃいましょうか。ね、どうです?」
「……私だって混乱してるんだから訊かないでよ。ハリも勝手に出て来ないで。分かってるでしょう、私の返事くらい」
「俺に八つ当たりしないで欲しいんですけど。それとも、なんです? 話す権限すら取り上げようって言うんですか。そんなの酷いですよ。どっかの女王様より意地悪だな」
「誰が、誰より、意地悪ですって?」
 彼女に女王の話は厳禁だ。分かっていて話題を持ち出したハリラオスへ、コリンナの敵意が胸裡にて向けられる。自分の身体に殺気を放つなど滑稽だが、ハリは意識が凍り付きじわりじわりと迫る息苦しさに堪えかねた。毎度毎度こんなものを向けられては生きた心地がしない――今の状態を生きていると仮定するならば、の話だが。
「(本当に俺に話しをさせる気はない、か。……はいはい。じゃ、行きます、よ!)」
 無駄のない動きに乗せて赤い雫が弧を描けば、殺し屋は警戒心も露わに飛び退く。最も興の失せた剣士にはすべてが他人事、娘が勝とうが一家が全滅しようが関係ないことだったがふと背後から白矢に狙われている感覚に身震いした。回復したばかりのコリンナが易々と毒矢を避けられるはずもなく、戦い慣れた男は悲劇的な結末を容易に思い浮かべることが出来た。 
 ――避けられないなら叩き落すまで。
 コリンナが足下へ視線を落とした。元護衛の獲物・炎剣フランベルジュが死後硬直の始まった亡骸の隣へ冥土の土産として添えてあった。しかしハリラオスには動く気など更々なかった。要求を拒み、己を生き返らせた少女と一緒に二度目の数奇な人生へ終止符を打てようと目論んだのである。 
 なのに、だ。無意識に愛剣を蹴り上げると、宙で掴み、逆刃で毒矢を叩き折っていた。
 瞬間、彼は唐突に理解した。 
「(オレには、絶対にこの子を殺せない)」 
 ハリラオスには主を枯らす敵を野放しにし、ゆるやかな死を待つことも許されていなかったのだ。 
「誰が酷ですって?」
「(貴女ですよ。あーあ。どうせ目覚めるなら、別の国の人間が良かったのに)」 
 かつてハリは本名を捨て竜も王家も関係ない無派閥の道を選んだはずだった。だのに生涯、竜の力を色濃く受け継いだ王家の少女へ縛られる運命と悟ってしまった。ハリは望むと望まず連邦国を成り立たせている宗教の根幹へ組み込まれてしまったのだ。そう、だいきらいな、あの派閥闘争に。時同じく少女もまた己が犯したことの重大さを――初恋の男の命を奪い大怪我から回復したのだと――悟っていた。かくしてコリンナは冷淡とも言える潔さで内に在る異物を受け入れ、間髪入れず厳命を下すのだ。 
「殲滅よ。ハリラオス」 
 血なまぐさい廊下へ佇むいたいけな少女。可憐な容姿へ不釣り合いな沈着な声音だった。凜とした冷たさが、熱く迸る血汐に染みて心地よいとさえ感じた。だからこそ剣士はその時のことを一生忘れられないだろう。 
「命令だって? このオレに?」
 我が主は王太子リガス、あの人ただ一人。そう誓いを捧げたはずの渓谷が青き花々を諸手に苦悩を強いる。絶対服従を強いられた剣士が娘を死へ追いやりたいと願っていることを見抜いた上で、気高く残酷なお姫様へ仕えろとうそぶくのだ。逆らえないと分かっているのにハリは逡巡する。が、幼子へ非情なる片鱗を垣間見た瞬間、この場に似つかわしくない安堵を覚えた。
 ああ大丈夫だ、この人は元主人に似てなんかいない、あの人はもっと優しい人だった、こんな刃物のような瞳をする人ではなかった――だから共に居ても「彼」を思い出すことはないはずだ、と。男は命じられるまま愛刀フランベルジュで刺客の肉を裂くことにした。少女が残酷であればあるほど心が満ち足りる気がした。それは敬愛したあの人から遠ざかる行為だったから。
 かくして長くて短い時が過ぎた後、冷えた塊が長廊下へ並んでいた。水を打ったように静まり返った屋敷でまともに息をしていたのは元護衛と少女コリンナ、王太子の内縁の妻シビルだけであった。
 達成感の乏しい一仕事を終えるとふと鏡の中のコリンナと目が合う。灰色の瞳を通して見る少女はかつての面影を失っていた。父親を失い嘆き悲しんでいたあどけない少女はどこへ消えてしまったのか。すると心を透かしたのだろう、少女は獲物を定めた狩人の風体でスゥと瞳を細め、
「諦めなさい。貴方の主は私よ」
 ハリは自分の荒んだ意識を共有し、誰よりも冷淡になった娘をいっそう憎らしく感じた。あのまま幼子でいてくれれば可愛げがあったものを。そのことが悔しくて幾度も主の命を奪おうと試みた。だが後一歩というところで発作のような痛みが意識を刺し貫くのだ。 
 以来、繰り返しハリを襲う、離れたいのに離れられない苦しみ、愛したくないのに溺れていくもどかしさ、そのすべてがじわじわと従者を苦しめていった。けれどその苦痛もコリンナが国外亡命する頃までには薄れていた。否が応でも主へ対する愛情を刷り込まれたハリラオスは「彼女を護るのは自分の仕事だ」と強い使命感さえ抱くようになっていたのだ。
 ――反面、少し遊んでも許されるはずと歪んだ考えが頭を支配していくようにもなっていたが。 
「コリンナ? はは、大丈夫。最後にちゃんと助けるよ。それまで少し苦しんでもらいたいんだ。……なに、主人を敵のど真ん中に置き去りへするのは忠誠を誓った従者としてあるまじきこと? うん、人はそう非難するだろうね。でも死なない程度に反抗して困らせるくらい可愛い悪戯だと思わないか。――死にたがっていた人間を無理矢理目覚めさせて、服従させちゃったお嬢さんに比べれば、さ」 
 えてして二人の奇妙な主従関係が出来上がる。亡命直前、再会した彼女の叔父は運動音痴でか弱かったコリンナが目を見張る剣術を会得していることに驚愕したという。

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