共和国 とある閑談
閑寂な建造物に暁光が射し染める。早朝、ケアド共和国の外壁付近に建物を構えるひなびた旅館へ一人の男が訪ねてきた。早起きと名高い店主がふすま戸を引くと訪問者はひとひらの大きな花びらを渡し、独特の廓言葉を聞く間もなく立ち去ってしまう。花びらの先は桃色がかり、木蓮の輝くような白が閑古鳥の鳴く玄関に幾筋かの光を散りばめた。玄関に寝そべって主人の帰りを待つ白虎――旅館で雇う護衛の相棒である――は春の名残香に誘われ、甘えるように喉を鳴らす。壱悟はふわふわした白い動物の耳裏を掻いてやり、丁寧にしたためられた自分宛てのそれを裏返した。
「朝早くからご苦労様でありんすなあ」
ふうと息を吹きかける。すると見る間に白い煙が漂い始めた。本人しか開けないよう強い術が施されているらしい。それが一枚の手紙に姿を変える間、壱悟はわらじを脱ぎ、裸足をぺたぺたと鳴らしながら長い裾を引きずって廊下の奥へと消えた。
機密対策するほど手紙の中身が重要とも思えないが。どうせ先日の返事に対する文句に決っている。壱悟はざっと目を通すと巻紙に紐を結わえ、議会からの最後通牒をさも一大証拠品だというように丁重な手つきで畳んだ。和紙は薄く、裏側に罵詈雑言の羅列が透けている。
――この国のお偉い方はどなたも童〈わらし〉のようでありんすなあ。
壱悟はくすりと笑った。共和国議会の議員達はどんな手を使ってでも彼を仲間に引き入れたかったようだ。だが玉砕を悟り、今度は旅館の部下を殺すと脅しているのだ。慇懃無礼な文面から思慮に欠けた政治家の性格がうかがい知れる。男は参り顔で手を叩いた。二回、乾いた音が使用人の起床を促す。
「誰か。誰かおりんすか」
「お早う。あたし起きてるわよ」
引き戸を開けて入ってきたのは袴を着た娘だった。
「小紋でありんすね。適任でありんす。すみんせんが、ちょっと頼まれておくんなんし」
「はいはーい。修理屋の小紋になんでもお任せあれ」
とんちんかんな返事に壱悟は笑みを返した。十八番の決め台詞だ。その通り旅館内で稀少な銃の修理屋を営んでいるのだが大概客は来ない。旅館の雑用に追われる身であり壱悟の部下として長らくともに生活してきた小紋はすぐに壱悟の気色すぐれぬ面と手元の文を認めた。
「昨日も手紙の配達。その前も手紙の配達。で、今日もまた手紙の配達。ねえ、どうしてこの頃密に蓮華と連絡取ってるの」
「蓮華様を目の敵にしている議会が、酷くわっちに惚れ込んでるんでありんす」
「わあ、理解した」
大切なことを上司に相談するのは当然のこと。権力者へ通じるパイプを担う壱悟が常に外部と板挟みであり苦しい立場にいることは旅館の全員が知っている。彼はこの国、共和国の「門番」として象徴的な要職に就いていた。
「門番って損ばっかよね」
「大切な仕事でありんすよ」
「壱悟さんはそんな下っ端で終わる人じゃないもん」
壱悟の更に下、下っ端中の下っ端に甘んじる彼女はにやりと笑った。あたしもいつかのしあがってやるけどね。そんな体の大胆不敵な笑みだ。壱悟は一筆執り、画数の多い字を流れるような筆跡で綴った。護衛に幸福も連れて行っておくんなんし、と手から手へ渡る手紙。同情を禁じ得ぬなんとも言えぬ顔で彼女が受け取ると、間髪入れず玄関の引き戸が大きな音を立てて開いた。立ち話しているうちに小一時間ほど経っていたようだ。来る日も来る日も閑散とした寂れた旅館に、どっしりした骨格を思わせる重い足音が響いた。
「やっこさん丁度帰ってきたみたいよ」
壱悟と小紋は部屋の出入り口を見守った。ひょこり。白い尾っぽが姿を現わす。黒い縞模様に続き三角の耳、猫科の顔が飛び出した。帰宅した男の相棒である。白虎は低く唸り興奮していた。
「どうどう。あんた一人? ご主人さまはどこ?」
声が聞こえたのか、小紋がなだめていると後ろから飼い主が顔を出した。三段に割れた引き締まった腹を惜しげもなく晒し黄味の強い茶髪を一本縛りにしている男だった。裾がすぼまったゆったりした黒いパンツはやや泥で汚れていたが、五体満足である。
「今帰ったヨ」
「お帰りなんし」
「向こうでは何もなかった?」
シン、と呼ばれた男は桜文様を刺繍した薄紫の袴を一瞥し、彼女だと識別すると身を乗り出した。細く、切れ長の瞳が特徴的だ。だが幸福は肩で息をしていた。
「何もないって顔じゃあないわね」
「そうなんだヨ。小紋、大変ネ、あの国に動きがあったヨ」
「あの国って連邦国?」
幸福は首を振る。相棒の白い虎を撫でて心を落ち着かせようとしている様子だ。彼は、違うヨ、とうわごとのように呟いて壱悟と向かい合った。
「ミアナハ公国で不穏な動きがあるって蓮華ちゃんが言ってるヨ」
「噂の賊でありんすか」
「違う、たぶん別ネ」
壱悟は綺麗に編み込んだ紫の髪を撫で、考え込む素振を見せた。
「賊は壊滅したという情報が入ってきていんす。そうすると、他にもいるということでありんすね」
この時壱悟の脳内には幾つかの可能性が浮かんでいた。うち一つは賊の存在。公国には二つの賊集団が双璧を為している。片方は目立ちたがり屋。「不死鳥団」と名乗る者達。どこぞの男に壊滅させられたようだと裏業界ではもちきりだ。そしてもう片方は「光明」と呼ばれる集団。賊なのか大公の秘密組織か定かではない。だがふらりと現われては公国民を困らせる存在を潰し、また影のごとく姿を消すのだ。
「ひょっとしたら、ひょっとするとでありんすねえ」
「心当たりあるの?」
「少しでありんすけどね。けれど腑に落ちぬ点もありんす」
気になるのは幸福の表現だ。彼は不穏な動きと告げたが、不思議なことに壱悟は「光明」に悪いイメージを持っていなかった。沈鬱な壱悟の隣で娘が不安そうに護衛を見上げた。
「蓮華の予知夢は絶対当たるわよ。それよりこの国に火の粉が飛ばなきゃいいけど。他に何か言ってた?」
「予知夢の情報じゃないんだケド、帰り道によそ者見たネ。帝国の人間だと思うヨ」
新来の情報に壱悟が反応した。おそらく自国で何かを察知し、夜な夜な亡命しているのだろう。
――逃げるならケアド共和国はうってつけでありんす。ケアドは二年前の第三次大陸戦争で最も被害が少ない国でありんすからね。
そう紡いだ壱悟の声はどこか弾んでいた。
「ねえシン」
「何アル?」
「軍事大国・オルドーグ帝国でぶいぶい言わせてる高官が柄にもなく恐れる相手といえば、あんたなら誰が浮かぶ?」
「連邦国。この国とまた違った高等技術があるカラ、敵に回したら厄介ネ」
「だよねえ……ガルタフトしかないよねえ。やだなーもー」
連邦国が帝国に策を弄する。それは再びあの惨禍が繰り返され、やっと取り戻した平和が危ぶまれるということだ。今度こそこの国も巻き込まれるだろう。予知夢で先読みされなくても分かる。件の戦争よりもっと前から共和国は戦利品を放棄する代わりに生臭い戦いから一抜けて自国の技術革新に心砕いて来たが、それも過ぎたこと。悩みの種である議会はこれを口実に実権を取り戻そうとゆゆしき謀略を図るかもしれない。
「浅いつもりで深いのが欲望、っていうものね」
壱悟の危惧を読み取ったのか、柱に寄りかかり、己のつま先を眺めながら小紋が独り言ちる。だけど、と英知と悪知恵を秘めた瞳がずる賢く光った。
「タイミング良すぎると思わない?」
「蓮華様の予知夢と、でありんすか」
「そうよ。だって蓮華も、公国の新しい統治者は賢い、あの国はリナルド大公の下できっと再建するって褒めてたじゃない。なのにどうしていきなり? 人間なんてそうそう変わんないでしょ」
あたしだって大雑把な性格を直そうにも直せないもの。と胸を張る小紋に心得ぬ表情で反論するのは幸福だ。
「だけど大公に何かあったかもしれないヨ?」
「ふう……。あんたの言う通り、その何かが重要なのよ。あたし気付いたの。大公に関する良くない噂が流れ出したのは去年の冬。ちょうどその前、ミアナハ公国で何があったか覚えてる?」
両手を袖の中に入れ、胡座で差しうつむく壱悟がはたと顔を上げる。雷に打たれたように気色ばんでいた。
「なるほど……なるほどなるほど。当時、公国は連邦国と停戦条約を締結したでありんすね」
「ははあ、そうだったネ。でも奇妙ネ。またガルダフト連邦国の名前が出てくる」
湧き上がる疑惑。既に綻びた糸をほどくのはなんと簡単なことだろう。雪山を転がり落ちる雪玉のごとく、時が経つほど大きく膨れあがっていく。壱悟は一旦手渡した手紙を受け取り、一行、二行書き足した。だが紙を巻き、革紐をきつく結わえた後、幸福は残った墨に筆を浸し始める。早く行こうと文句を垂れる娘の声を余所に、彼は宛名の端にこう書き添え、満足気に筆を置いたのだった。
「Omnium rerum principia parva sunt.――すべての物事の始まりは小さい」
あとがき
コヤさん宅の幸福くんと壱悟さんお借りしました。
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