ルアハの花

番外編

公国 呻吟


 東クレプスクルムは第二の王宮――毎年各国から数多の貴族が訪れる公国首都東域。宮殿に匹敵する壮麗なドームではギルドの隊員達が修築工事へ着手し始めていた。孤児や困窮した市民のたまり場と巷談多き南域から一転、豪華な集合住宅が立ち並ぶ高級街である。天気の良い時ならば陽を受けた赤角像が丸屋根のドームを照らし、紳士達は噴水のほとりで互いの審美眼を讃えるだろう。手つかずの森を残した自然公園でも日傘を差した貴婦人の身にあまる美しさに血気盛んな青年は無礼講もやぶさかではない。
「バルトロメ、落ちるなよ」
「無理っす! 高すぎっす! 怖えええ!!」
 修繕工事は辺境伯アルノルド卿みずから指揮を執っていた。屋根瓦一枚一枚に金の縁取りが施され、雨に濡れてきらきらと光っている。曇天である。瓦礫を穿つ豪雨はすでに弱まり、山脈のさきざま――連邦国側には雲の切れ目が見える。
「おっかしいすね。山のあっち側は晴れてんのに。もしかして雨降ってるのは都心だけっすか」
「けったいだよな。ま、このまま雨が止んでくれれば構わないさ」
 高い塔は富の象徴である。件の建造物も東域全体を見渡せる高さを誇っていた。命綱が手放せぬ高所恐怖症の部下は及び腰で遠望を見渡した。
「貴兄ってよくそんな性格で生きて来られたっすね」
 バルトロメと名指しされた部下が独りごつ。腕は確かなのである。露出狂だとか、筋肉馬鹿だとか、否定的な意見を持つ人間でさえ辺境伯の実力は認めている。しかし正直、中身が心許ない。ありあまる透明感を携えた、読めぬ底意とはほど遠い澄んだ心根がいつしか大変な結果を招くのでは、と不安に駆られるのだ。
「あっはは、ヴェラちゃんにもよく言われるんだよ」
「なんで嬉しそうなんすか」
「惚れた女に褒められたら誰だって嬉しいだろうさ」
「褒め……けっ。そのままヴェルヴェットさんのピンヒールに踏まれてしまえ」
 滴り落ちる雨水を部下が鬱陶しそうに払う度、衣服へ縫い付けた狼の刺繍がほのかな金を放つ。金は部隊で一番腕の立つ人間のみ許される色、すなわち連邦国と接する辺境において、最前線の戦闘部隊に属するバルトロメがどのような立ち位置にあるか想像するに難くないだろうが、どこかの少女に負けず劣らず辛辣な物言いをする部下だった。
 しかし傾慕する女の話題となれば、恥も外聞もなく罵倒を聞き流すのがアルノルドという男である。目尻は徐々に垂れ下がるばかり、惚れた欲目もあろうが、他人を疑うなど知らぬ性質が加速するらしい。 
「俺達だけで工事進めようってのが失敗っすね。やっぱりゾイさんに協力してもらったほうが良かったっす」
 貴兄の溶けた頭よりずっと早く工事を終らせてくれるっす、と不満を露わにすると筋肉公は渋った。
「ゾイってミハリスのほうか? あいつは呼ばん。あんな『力』がなくたって仕事は回してみせるさ」
「まーたそんな豪語して。だって考えてみてくださいっす。東域の再建を待ち望んでる人間はごまんといるんすよ。国内の上流階級だけじゃない、帝国のお偉方だってお忍びで来るし、そうなれば色んな情報も手に入れやすくなる。ヴェラさんにだって良い暮らしをさせてあげることが出来るかもしれないっす」
「ううむ。だが実際、ミハリスの顔色は悪くなるばかりだぞ。俺は他国の王子に無理させるのは好かんよ」
「なーに言ってるっすか。『力』を使わせなければいいんすよ。脳みそだけ見たって貴兄より優秀なんすから、良いじゃないっすか、ちょっと引っ張って来るくらい」
「お、お前なあ……俺だって傷つくときゃ傷つくんだぞ」
 色よい返事は返らない。いよいよ業を煮やした部下は心情を訴えた。
「貴兄はそんなだから……自分は貴兄が心配で心配で仕方ねえっす。そりゃ貴兄が作ったギルドは巨大になった。我が国にはなくちゃならないもんだし、公国に世話になった自分としちゃ、ここで働けるのはまたとない幸運っす。だけど要であるはずのティベリオ宰相は実務より神様のことばっかり。コリンナ嬢はあの通り愛想が悪い。となればアルノルド伯爵、貴兄がきっちり統率しなくてどうするっすか」
「あっははは、お前段々宰相に似てきたな」
「あんな狂信者と一緒にしないでくれませんかね?」
 卿が宥めるように肩を抱く。彼は部下の怒りの奥にもっと別の理由を認めた。帝国騎士団を真似て設立されたギルドは、大公直属とはいえ粗忽者ばかり集う傭兵集団。優美を徳とする公国にはふさわしくないと文句を垂れる民も少なくない。おぼつかぬ足下、寄る辺のない不安。アルノルドは心の触手を伸ばし、現われては消える男の感情を掬いあげた。
「――で? バルトロメ、ほんとは何が不安なんだ」
 確かに、アルノルド卿の篤実さは弱みにもなり得ろう。だがそれは疲弊した心身で暗黒時代を疾走する彼らを惹きつけてやまない、ある種、蠱惑的な魅力を併せ持っていた。バルトロメは訝しげに目を細めた。
「もし……もしっすよ。ギルドが巨大になりすぎたからって、大公が貴兄を殺しに来たらどうするっす」
「は? おっまえなあ。宰相に似て来たどころか、脳みそ腐ったのか。んなことあり得ないぞ」
 信心深いこの男は、大公に付随する赤き鳥の神聖さへ全てを委ねるつもりなのだろう。けれども信じる対象が間違っていたとしたらどうだ。どれだけ心を砕こうがいつか裏切られるのが落ちである。大公が肉親たる父親へ行った所業が所業だけに部下は懸念を抱いていた。アルノルドの世界があの女医中心に回っているように、バルトロメの世界は卿中心に回っていたから。
「異母兄弟だから、っすか。血が繋がってるから? だけどリナルド大公は肉親の父親を……貴兄のお父上も切り捨てたんすよ。そして何食わぬ顔で帝国と同盟を組んだ。帝国〈あいつら〉は我らが祖先を皆殺しにした虐殺者なのに。思い出してくださいよ、アルノルド卿、先代公が幽閉されたクーデターから何年経ったっす? そうっす、まだたったの数年。舌の根も乾かないうちにリナルド大公が同じことをしないって断言できるっすか」
 もとより温暖な気候であるミアナハ公国は貴族の保養所として好まれていたが、とりわけ東域は上流階級の遊び場として名を馳せていた。幽閉された先代公も王宮の根城より好んで滞在、財政難を重ねながら夜な夜な社交界が繰り広げられ、戦はただ侵略と防御にのみ徹し、太平の世を作ることに一切関心を向けなかったという。
 にも関わらず、やはり。アルノルド卿はアルノルド卿なのである。卿は己の異母兄弟へ絶大な信頼を寄せていたし、これを疑われることも嫌った。それだけに迸る怒りも凄まじいものがあった。
「貴様! それ以上言うと侮辱罪で捕らえるぞ!」
「うっ。こええ……! だ、だけどギルドが反乱を起こすって噂が流れてるっす。そうしたら主権を奪われるって不安になるかも」
「んな訳ないだろ。大公ってのは、赤角様に選ばれて初めて成るものだ。いくらクーデターを起こしたからといって赤角様があいつを選ばなければ今の地位に収まることは不可能だったんだぞ。バルトロメ、分かるか、不可能って言葉の意味が。この国では赤角様に選ばれず主権を握るなんて絶っ対にあり得ないんだ。それを一番理解しているリナルドが、たかがギルドなんかに疑心なんて抱くか」
「それは分かってるつもりっす。けど、ここはもう以前の公国じゃない。先の戦争が何もかも変えてしまった。だから、自分は……」
 バルトロメの台詞が尻切れトンボで止まる。紡ぎ掛けた言葉は飲み込まれる。顔は上司へ向けたまま、忙しなく左右に目が動いた。
「貴兄? なにか聞こえないっすか」
 小雨が奏でる沙羅の衣擦れのような、楽の奥。空気が振動していた。王宮の方角から耳朶を伝い人の声がする。足下に微かな揺れを感じる――にわかに二人の視界が揺れた。真っ二つに割れた屋根を凝視したまま顔面蒼白で命綱を掴む部下の姿を最後に、アルノルドの視界は奈落へ押しなだれる瓦礫に覆い尽くされた。
「伯爵ー! 無事っすか!」
 部下の呼びかけが悲痛にこだまする。と、しばしの間を置き、土煙の向こうからくぐもった返事が戻る。
「痛ってえ……あー問題ない。珍しく綺麗に着地出来た」
「や。それはおかしいっす」
 高層から落ちてどのように着地したのか。曰く、建物内に侵入していた木々に引っ掛かり、衝撃を和げることが出来たらしい。「運動音痴の癖に運だけは良い伯爵っすね」と悪態を吐き、瓦礫の縁に捕まり辛くも難を逃れたバルトロメは、遙か下から響く上司の声に項を垂れた。
「まったく、崩れるタイミング良すぎっす」
「あっはは。神様は見てるもんだからなあ」
「大公にべた惚れしてる赤角様が怒ったのかもしれないっすね。おお、怖い怖い」
「ま、これに懲りたらもうリナルドの悪口は言うなよ。あいつが裏切るはずがない。俺のことも――お前のこともだ」
 過ぎたる自信は不安の裏返しと言うがアルノルド卿に至っては一片の懐疑心も見当たらない。上司の意志へ忠実な部下であるべきバルトロメはとつおいつの思案に心乱されながら匙を投げた。


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