ルアハの花

番外編

公国 密偵の言い分


 峰峰を越えて南へ南へと急く赤角を仰ぐ。栄華を極めた古き国などいまとなっては社会からつまみ出された老人が酒の肴に語る御伽話に過ぎないだろうが、砂に囲まれた祖国で母が語ってくれた物語を思い起こす度にそれはニーノ少年の荒んだ心をほぐしてくれた。
 いまや立派な青年へ成長したニーノは夏の到来を予感させる積乱雲を追って馬鞭を振るう。戦後手つかずのまま放置されている崩れた廃屋――公国馬は国全体に闇を落とす美しき湖城の影を背負って軽快に土を蹴っていく。視界を曇らす程度の微かな黒霧がその跡を追っているとも知らずに。
 商人の目的地は公国南域の一角だった。栄華を極め連邦国の侵入により落ちぶれた東域とも、王宮と赤角の威光が輝く西域とも様相異なる貧困街である。壁伝いに走るガス管は破れて鼠の隠れ家となっている。水はよどみ、住居といえば戦火に相まみえた瓦礫の残骸か。民草は雨風凌ぐために隙間へ身を滑り込ませてひがな一日を沈痛の面持ちでやり過ごすのだろう。
 それでも人々は神を求めて快晴を仰ぐ。時折かんかん照りの蒼天に薄い暗幕がかかるが、しかし強風が吹き抜けると同時に不吉な影は消え失せ、人間達はまた何事もなかったかのように乞食の真似事をして虚空へ手を伸ばした。
「この国はどこに居たって焦げそうだな」
 危険地帯である〈竜の尾〉火山地帯から堂々とした帰還したニーノは、こと公国に置いても目立つ存在だった。それもそのはず、橙色の派手な長髪、見慣れぬ文様を刺繍した黒羽織の中に臙脂のシャツを着込んでいる様は到底一介の行商人とは思えなかった。
 橙男は用心深く視線を走らせている。手元には大きな袋。さほど重くはないのだろう。片手で袋を抱えると一気に路地を駆け抜けた。しかし、無事に路地を抜けきり安堵が浮かぶのもつかの間、周囲の瓦礫から飛び出したいくつもの影が彼に覆い被さった。
「ニーノ、つっかまーえた!」
「ぐえ!」
 懐に隠し持っていたサングラスは踏みつけられて粉々に砕け散った。忽ち橙は吃音混じりの悲鳴をあげ、勢いよく身を起こす。
「一張羅のサングラス!」
 けたけたと子供達が笑う。すると最後までしがみついていた一際幼い子供が男の髪留めを解き取り上げ、満面の笑顔で首元にしがみついた。やめろよ。男は喚く。その光景が面白いのか、子供達はわいわいと両手を打ち鳴らした。ニーノ、ニーノと合唱が始まるうち、件の被害者は颯爽と立ち上がり、小脇に抱えた袋の点検を始めた。
「あのなァ。大事な商品に傷ついたらどうすんだよ」
「どーせ違法な品物でしょ、それ」
 けたたましい歓声に大人びた声が加わった。白いはずのワンピースは泥まみれに茶焦げて、千切れた肩紐の代わりに縫い針を留めてある。女の子は集団の前に進み出るとませた表情でニーノをうち仰いだ。
「しばらく顔見せに来ないと思ってたら。まさかそんなもの集めに何年も留守にしてた訳じゃないよね」
「まさかのまさかだよ。公国に戻ってきたらこれが鉄板だろ」
 袋の口から飛び出す紅い羽毛は奇妙な光沢に包まれ虹色の輝きを帯びていた。
「でもそれ、赤角様の……」
 咎めるように言い淀む。けれどニーノは一層胸を張り、冷ややかな視線を送る子供たちを見渡した。だからなんだ。そう言いたげに小鼻が膨らむ。
「始まりは連邦国、かと思えばお次は帝国。今回の仕事は長かったな。なんにせよせっかく帰国出来たんだ。絶好のチャンスを見逃してたまるか」
 不幸中の幸い、親友セルジュと出会えたのは悪くなかった。しかし美しい女の色香にも似た匂やかな公国へ戻ると、矢張り己の居場所はここなのだといたく実感したのだった。
「一度は文無しになったけど、帰りは安全快適この上なし! この通り五体満足で帰ってきてやったぞ」
  表向きは少し遠くへ足を伸ばした行商と偽ってある。しかし少女は「別にニーノの心配はしてない」と毒舌に切り返した。応えるように偽の商人も懐から新品のサングラスを取り出す。
「澄ましちゃって。お前らだって、寂しかった癖に」
「ちょっとはね。だけど、うちらはそんな稼ぎしてるニーノのこと尊敬できないよ。だってそれ――」
 ――神様の落とし物でしょ。
 少女が首に提げたネックレスを取り出した。この国で神と等しき赤い鳥「赤角」のシンボル、紅の羽根を象ったそれは錆びて緑青に覆われていた。だが金色の縁取りだけは陽光の輝きを保っていた。
「大公様に罰せられるよ」
「今時んなこと信じてるのは阿呆だけさ」
 意地悪げにニーノの瞳が光った。俺は商人。信じるのは自分の手腕だけだと豪語する。お前らだってそうだろう、と同意を求めるも、望んだ返答は返らなかった。
「ほーら。こいつにゃわかんないんだよ」
 進み出たのはリーダー格とおぼしき少年である。
「ニーノだって昔はちゃんと神様信じてた癖にさ。商売成功した途端、すぐこうだ。だけど俺達、あんたが信仰心を失ったなんて思っちゃいないよ。だから思い出して欲しいだけなんだ。苦しい時、いつも支えになってくれたのは赤角様だったって」
 苦境に立たされた時、子供たちはいつも祈った。目に見え、空を飛び、煌びやかな炎を纏う紅の神様へ。だがニーノはこんなところで信仰心について議論する気など微塵もなかった。
「悪いけど俺は『赤角』が神だと思ったこと、一度だってないな。あんなの炎を吐くただの鳥だろ」
「炎を吐くから神聖なんだよ! あれ、聖なる炎なんだよ!」
「……お前ら、目に見える神様っておかしいと思わないのか?」
「見えるんじゃなくて、姿を見せてくれてるんだよ! もーなんで分かんないかな!」
「へーへー。親切な神様ですね。……第一、あれが本当に神だとしても、崇める価値があるとは思えないな」
「ニーノ、もしかして聖典ちゃんと読んだことないの?」
「あるよ。ほとんど作り話の本だろ」
 知らないとこの国のお客さんと会話できないから頭に叩き込んであるよ、とニーノ。投げやりな言い草に少年と少女が顔を見合わせた。これではどちらが年下か分からない。ニーノはそんな子供達を不愉快そうに眺め、
「憎き帝国へ売りつけンだからいーじゃんよ。回り回ってこの国も潤うぞ。大公様だって喜ぶに決まってる」
「はあ……。ニーノ、分かってんのか? 大公様と赤角様は一心同体。赤角様の落とし羽根を売り物にするなんて、むしろ反逆罪に問われてもおかしくないだろ」
 的を射た指摘に橙色は押し黙る。しばしの瞠目。
「まあ。そこは十分に用心してる。うん」
「用心するくらいなら違法行為すんな」
「無理。儲かるから」
 ずる賢そうに口元を歪めきっぱり言い放ったニーノに子供達は肩をすくめた。
「ニーノさあ……学者様や司祭様が怒るのも無理ないよね。信仰心についてあんたに説くつもり、もうないけど、この国の商人には赤角様の羽根売るの止めて欲しいよ」
 ――ここでようやく、上空から傍観していたカンディードは合点がいった。危険地帯に指定されていた活火山でニーノを見掛けた理由に。それは公国の神・赤角と呼ばれる幻獣の羽根を集めること。赤角の羽根は厄払いとして効果が高く、美しい光沢、芸術的観点から他国の評価が高いのだ。ゆえに恐れ知らずの商人はしばしばを火口を訪れ、聖なる鳥が落とした翼を命がけで収拾する――蓋し、公国において赤角と大公は同義。もしくはそれ以上の存在だ。つまり彼らの行為は反逆罪として第一級犯罪に値する。そこで一世風靡したのが隣国・オルドーグ帝国主催の闇市へ出店するための密輸であった。
 首飾りを握り締めた少女は躊躇いがちに後を引き継いだ。
「うちら手も足もこんなに汚れてて、神様の前に出るのも恥ずかしいくらいだけど……心だけはまっさらでいたいよ。折角戦争が終わって平和になったんだもん、まっというに生きていいって思いたい」
「ふーん? 平和ァ? 何見て判断してンだよ。どっかの大国さんがまた攻めてくるかもって噂されてんだぞ。今のうちに逃亡資金稼いで平和な共和国へずらかるべきだ」
「そらみろ、ニーノは神様なんて信じてないから、大公様のことも見捨てるんだ」
 ニーノは浮かない表情で唇を噛んだ。
「違……わないけど、俺なりにお前達を心配してだな」
「でも共和国へ逃げるってことは、大公様を置いていくってことじゃないか。リナルド様は公国から外へ出られない御身なのに。もういいよ、分からず屋のニーノはどこにでも行っちまえ!」
「そーだそーだ! もう来るな!」
「うわっ……おい、石を投げンな! ったく、しょーがねーの!」
 少年達に追い立てられるようニーノは貧困街を後にした。彼は密偵をしているから分かっていた。危険は隣国だけじゃない、子供達が信じて止まない大公の背後からも迫っていることを。
「人の話聞けよな。分からず屋はあいつらだ……!」


≪ prev 目録 next ≫