公国 黒と赤
黒い霧が商人ニーノにつきまとっていた。不気味に漂う人ならざる霧はとうてい生物には見えなかったが、れっきとした名前があった。カンディードという、今となっては忘れ去られた古い名前だが、大切な名前が。黒い霧は敬愛する「あの人」に優しく呼んでもらった名前を心の中で何度も繰り返しては己が理性を魂に押し込めた。でなければ、彼自身が元人間であったことすら忘却の海に投げ捨ててしまいそうだったのだ。
しかし、この苦難もあとわずかだと心が逸る。道中、ひょんなことから或る承認に目を付けていた彼は、件の橙男がただの行商人ではないと気付き、尾行していた。求めていた物がここにあったのだ。あれさえ手に入れれば、あれさえあれば、己は自由になれるのだと誰にも聞こえぬ声で高らかに哄笑した。
片やニーノと言えば速馬を飛ばして一気に西域まで駆け抜けていた。手綱をさばく間中、彼は沈思に耽っているようだった。自分は決して腐っていない――少なくとも彼自身はそう確信していたが、昔から面倒を見てきた子供達には伝わらない。すべてはやがて襲い来るだろう沛然たる豪雨を防ぐためだと鞭を振う手に力を込めるも、むなしさが勝っていた。
西門を跨ぎ、いくらも経たぬうちに「紅い羽根」の看板を認める。常に人がごったがえしている飲食店だ。その隣に二回り大きく立派な店があった。武器、防具、雑貨や菓子も取り扱う大型店、記された店主名はニーノ、彼の店である。出迎えた会計係が恭しく袋を受け取ると、ニーノは地面へ降り立ち、柔らかな橙糸がそよ風に弄ばれるまま黄昏れていた。
「わあーーー!」
藪から棒に店内から喧噪が湧き起こる。おっとり刀で店内へ駆け込む店主。彼を追って黒い霧も滑るように暖簾を潜った。
「やあやあ! すごいな、珍しいものがあるじゃないか!」
その先で黒霧が認めたものは、喜々と破顔する客の隣で頬を引きつらせる店主ニーノであった。客は火口を彷彿させる赤髪。左にモノクルを掛けた青年だ。赤髪は袋を覗き込み、
「長年あれを研究している私でさえ、こんな沢山の羽根は見たことがない。いやあ、全部買い取りたいよ!」
声高に諸手を広げる青年は三十路手前といったところか。右腕の袖がだらりと垂れ下がった片腕の男である。深茶に渋紫の衣服を組み合わせ、細い三つ編みを後頭部から二本垂らしていた。
「赤角様の羽根とは、また粋なことをするね! 近くにいても分からないことはたくさんあるものだよ。実に興味深モガッ」
その台詞が最後まで紡がれることはない。無礼講とばかりに、橙髪の店主は客の口を塞ぎ、必死の形相で何事かを囁いた。青年は豆鉄砲をくらったように瞠目すると、やがて申し訳なさそうに頭を垂れた。
「あ、ああ……内密だったのか。すまなかった。ずっと研究に没頭していると世間に疎くなるもので。お恥ずかしいことだ……」
「いやー黙っといてくだされば構やァしません。しかし……へー。あんた学者さんか」
「うん、そうなんだ! 赤角様の起源を専門に研究しているよ。ご挨拶が遅れて申し訳ないね、考古学者のユリシーズ・ディ=ナターレだ」
考古学者が朗らかに握手を求めた。その肩書きに顔を強ばらせたのはやはりニーノだった。近年、赤角学者と商人の対立が表面化している。むろん原因は商人側にあるのだが、文句の一つでも言われるかと想像するのも道理だった。しかし青年が次の言葉を発しようとするや、またも奇なる人物が割り込むではないか。
「こんな所にいたの、ユリシーズさん」
抑揚のない口調、きりりとしたよく透る声。一見しおらしい装いに不釣り合いな、凜と伸ばされた背筋が意志の強さを体現していた。
「やあやあ迎えに来てくれたのかい、コリンナちゃん」
一層にこやかに歓迎する考古学者と、反比例して渋面で詰め寄る女性。帯刀する女は灰目を釣り上げ、
「急いでるんだから勝手な行動は慎んでください」と苛立ちを露わにした。
「ああっと申し訳ない。つい興味をそそられてね! 周りが見えなくなってしまう性格は困ったものだね」
「ふうん。でも自覚はあれど直そうとは思わない、と言った様子ね」
「あはは。直せないから性〈さが〉と呼ぶ――なんちゃって。あ、ごめんって。ヴェラ姉さんみたいな怖い顔しないでくれよ」
「次くだらないことほざいたら柄で殴るわよ……」
低く唸った女は黒霧と顔見知りであった。彼女は連邦国王太子の秘蔵っ子。玉石混淆とはよく言ったもの、亡命先の公国ではむさ苦しい男に混ざって剣を振るう男装の麗人だ。この上、人あらざる血筋を受け継いでるらしく、力で勝るはずの考古学者もあれよあれよという塩梅に店外へ引き摺られていった。
「待ってくれないか、もう少し店主さんと話したいんだ!」
「却下に決まってるでしょう」
「お願いだ、この通り! 一時間だけ!」
「貴方を気絶させて連れ帰ってもいいのよ?」
「それは痛いからご勘弁願いたい」
「だったら大人しく帰りましょ。叔父様が美味しいお茶をご用意してくださってるわ」
かくして学者の懇願は儚く散る。と、不意に、気丈な娘がつと振り返る。彼女は店を出る寸前、桃に色づいた唇を薄く開いたと思えば幾ばくか静止し――ニーノの顔を見つめたまま――けれど結局、何も発せず、厳冬をもたらす薄曇りによく似た灰目を探るように這わせた。壁、雑貨を陳列した棚、天井。店内をくまなく巡る視線。やがてゆるゆると小首を傾げ、「お邪魔したわね」と無愛想な挨拶を残してさっさと立ち去った。
それが合図であった。邪魔者が居なくなった店内で黒い霧は身体の収束を解いた。天井を覆うように黒霧が広がるとニーノの背に悪寒が走る。
「なんだ、視界が……靄か?」
橙色の男はうっすら視野を遮る靄に目を凝らした――不意にカンディードは商人の前へ踊り出た。飛び退くニーノの眼前で体格のいい骨格が形作られていく。だが上手く粒子がまとまらない。至る所に風穴の空いたなんとも間抜けた巨人が彼の精一杯の姿だったが、一方のニーノは滑稽な姿を笑うでもなく迅速に身構え、
「その力、連邦国の魔術師〈ガル使い〉だな」と無気味な巨人目がけて鋭く短刀を構え威嚇した。落ち着き払った様子は明らかに戦い慣れている。大事を避けたかった闖入者は気怠そうに横目で裏口を確認すると、ややあって「店主さんよ。心配は無用だ。欲しいものがあって寄っただけだ。お前さんのそれを、な」と胸元を指し示した。
「実は火山で探し物をしている時からお前さんを見ていたよ。腕の立つ良い密偵のようだな。だが、なに、俺に勝てなくても落ち込む必要はない。『黒』はな、『赤』より厄介な存在なんだ」
「あんた、何いってる?」
「ほおら子供達と語ってたろう。みんなが大好きな『赤角様』のことさ」
黒霧の巨漢は酷薄に口角を上げる。冷淡な面持ちの中で赤い赤い瞳だけがぎらぎらと漲っていた。
「お前、あれだけ馬鹿にしていた『赤』の力を貰い受けてるな? 生身の人間程度が使うのだから弱いだろうが、元来、赤き炎は非常に強く……愚かな力だ」
ニーノは息を飲む。
「あんた何故それを知っている――いや、それよりも黒だと? 馬鹿な……だって黒は……そんなはずは」
「そういうことだ。だからそれ、力づくで奪わせてもらうぜ」
影を縫う男の台詞と同時に、橙色の店主は意識を奪われて卒倒していた。すぐさま亡霊さながら透いた手が懐をまさぐり目当てのものを探り当てる。深く皺が刻まれた顔が綻んだ。正体不明の男はようやく見つけた宝物のお陰で完全な身体を取り戻すと音もなく裏口から滑り出た。
足の動きに合わせて響くのは固い靴音。すれ違う巨漢、太い腕が肩口へ衝突しつい痛みに声を漏らすも、カンディードは「ありがとな」と満足げに微笑み返して雑踏へ消えた。
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