公国 赤い御徴
ヴェラが師と慕った博士は変わり者で有名だった。人嫌いの暗喩とも言える人物で口を開けば文句ばかり。赤茶色の眼光は鋭く眉間には常に皺が寄り先のひんまがった鉤鼻は彼の性格を如実に表していた。そんなだから大衆受けはすこぶる悪くそこら辺の居酒屋にいればただの捻くれ学者で終わったろう。
しかし生涯通して綴られた反戦論はその名を不朽のものとするに相応しいものだった。彼は生前飛び出た瞳をかっと見開きこう語っていたものだ。
「思考が嫌なら熱狂しろ」
なぜ、とヴェラが問う博士は決まってこう謂う。
「先の見えない未来ほど恐ろしいことはない。定められていない未来には希望もあるが、不測の事態も存在する。明日は突然他国が攻め入り、命を落としているかもしれないだろう。しかし人はそんなことを考えたくない。だから熱狂するのだ。恐怖を麻痺させるために」
熱狂は無知を、無知は恐怖を生み出す。大衆は次第に思考することを忘れ、熱狂のみに支配されていく。そうすれば為政者の思うまま――真実を見極める心は時として統治者の自由を奪うものだが――大衆を熱中させることに成功すればひとまずの心配は取り去られる。すなわち「恐怖政治において恐怖が武器と認識されるならば、熱狂もまた国王の武器でなくてはならない」とヴェラは教わった。
この理論に従って博士は恐怖と熱狂をどちらも避けるべきもの、つまり同列のものとして扱った。しかし人間という生き物はその二つに偏りがちだ。だからこそ彼は「大衆」と言う名の烏合の衆が嫌いだった。
「ヴェラや。戦争を起こすのは為政者ではない。熱狂と言う快楽に包まれた大衆なのだ」
国民は戦争を扇動した為政者こそが悪だと言うだろう。しかし惑わされたにしろ賛同したのは他ならぬ国民だ。国の要が国民だと主張するならば、国の罪もまた国民のものだ。それをただ一人に被せるのは罪逃れに過ぎない――。
しかし博士の言い分は理解したものの、巻き込まれるだけの民が一方的に悪いとも思えなかったヴェラはある時意を決して質問をぶつけた。
「博士の言い分では、戦争をしたがる統治者は悪ではない、国民のほうが悪い、と聞こえますが」
「ヴェラ、わしはどちらのほうが悪いかなどと議論していないぞ。誰かに責任を押しつける話をしたいのではない、なぜそのような事態が起きるのかを語っているのだ」
謂って、師は片眉をあげた。
「扇動は熱狂により育まれるものだ。恐怖と熱狂が対であるように、この二つもまた切り離せぬ関係にある。だからこそ熱狂に浸かってはいけない、現実から目を逸らしてはいけないのだ。ああ可愛いヴェルヴェット、孤独を好め。友人を作るなと言っているのではない。誰かに繰られた大衆へ一体化し、定められた道筋から逃れるために必要な『思考』を忘れるなと言っているのだ。なぜならお前は気高く、赤角のごとく大空へ羽ばたいて行く存在だ。だから……この言葉を送ろう。いつか私が居なくなっても、お前がお前で在ることが出来る様に。ヴェラや――『熱狂するな、満足するな、孤独を好め』」
狂気は伝染する。いかに洗練された人間であろうと確固たる信念がなければ拒むことは出来ない。だから我々は授けられる熱狂に抵抗し、思考において孤高を保つべきだ――そう告げた彼の言葉は、止むことのない侵略戦争に心を磨り減らした大陸中の識者達を奮い立たせた。
熱狂に耽る大衆はおぼろげな夢から目を覚まし「ディ・ナターレ」の名は異色の反戦論者として広まった。だが皮肉なこともあるものだ。博士の言説は隣国ガルタフト連邦国内で起きた反乱の論拠として用いられてしまったのだ。
今から丁度十五、六年前か。長らく失踪していた連邦国王家の王女――そうだ現在の女王である――が国内で勃発した内乱の指導者として凱旋したのは。彼女は「王家は侵略戦争の熱狂を悪用して民衆の意識を支配し、不必要に王家の権限を強化している」と説き「いずれお前達も潰されるだろう」と各地で自治を行っていた諸候を唆した。
そして――反旗は翻された。これが連邦国内で起きた史上最大規模の内乱となったのはまた別のお話だが、女王の手を取った諸侯らは気付いていなかった。その焦りさえも、熱狂の内で育まれたものだと言う事実に。
博士は酷く悲しんだ。都合良く解釈され非道な行いを肯定する根拠にされただけではない、彼らが最後まで目を覚まさず、欲望のままに尊き獅子王・レヴァンの首を刎ねてしまったからだ。
「我が公国がかの国へ攻め入った時、必死と定めて連邦国の渓谷を守り抜いたのは誰だ? 勝利に酔い痴れてその王を英雄に祭り上げたのは誰か?」
戦火が去り興奮が鎮まった時、人々はふと我に返る瞬間がある。そして怒濤の最中に繰り広げられていた熱しすぎた思考に嫌気が差し始める。すると今度は別種の熱狂を求め、用済みだと言わんばかりに命を救ってくれた人間さえも葬り去ろうとするのだ。
博士は優れた人物だったがそれゆえに不幸だった。師匠はその後、本業であった研究を止めて連邦国へ赴いた。かくして自らの口で本来の解釈を説いて回ったと言う。
しかし彼は未だ戻らない。女王戴冠後、突如姿を消したのだ。理由は言うまい。ただ、一言。その言葉は支配者にとって目障なものだった、とだけ記載しておく。
「ヴェラ先生、手止まってまーす」
「……!」
沈思に耽っていたヴェラは子供の一言で我に返った。今は授業中だった。机に歴史の本が置いてある。眼前であどけない顔をした少年少女が訝しげに小首を傾げていた。
「ヴェラ先生、具合悪いの?」
「ん……考えごとをしていた。講義を始める」
彼女はたいして働かぬ頭でぱらぱらとページを捲る。現代史である。副題に目を通すとミアナハ公国と連邦国の関係性と銘打たれていた。
「えー。知っての通り、我が国とガルタフト連邦国は古くより水面下で抗争を繰り広げていた。言うなれば宿敵だな。まあ隣国同士は利害関係が生じやすいから仕方ないのだが、それが表立って現われたのは……うん、ビアンカ」
「はい。元歴三七三○年代、帝国紀、ミアナハ神国ステッラ王朝の時代です」
「そう、激しい戦いが続いた。だがラウロ七世率いる軍は敵国に敗退。捕虜となり、王位は幼かった王子が継いだ」
ヴェルヴェットは黒板に走り書きをしていく。
「この時、王と共に捕虜となった将軍がいたのは有名な話だ。名は――」
「はいはい! 私その方分かります! スペンニトーレ様です!」
教室の後ろから黄色い声が上がった。スペンニトーレ〈抹殺者〉とは俗称であり本名は歴史に残されていないが英傑として人気の高い将軍である。
「この名前だけは頭に入ってるんだな」
「だってこの方を主人公にした舞台があるんですの。小説もぜんぶ読みました!」
「同じ方法でぜひ他の英雄も覚えてやってくれ」
町医者の傍ら教鞭を執る女は真紅のルージュで象った唇を歪めた。
「話は戻る。しかし数年後、最悪の事件が起きた」
分かる者はと問いながら視線を滑らせる。なんとなしに俯き加減の少年が視界に入る。これくらいなら分かるだろうと指名すると、
「えっ。えと……なんの事件だったかな」
「馬っ鹿ねチェル! 忘れたの? 『赤角の憂鬱』事件よ! 」
先ほどの少女の囁きがため息に混じる。すると、ああ、と納得の返事が返った。
「あの、王位を継いだ幼い国王が帝国軍にだまし討ちされ、王家が一人残らず虐殺された事件……です」
「その通り。これにより三千年続いたミアナハ神国は滅亡。王家の血の断絶を悟った赤角様は、当時ステッラ王朝へ最も近しかったルチア公爵を次なる支配者に選び、結果、現在のミアナハ公国が成立した」
歴史とは強者が刻んだ軌跡である。知る人ぞ知る歴史は歪んだ過去の積み重ねだと誰かが述べたところで反論できる者は少ないだろう。それでも知らなければならない。ヴェルヴェットはそう確信していた。しかし一体何に突き動かされているのか?
自分でも理解できない衝動が彼女の肌を粟立たせ、瞼の裏を駆け巡る赤い閃光に夜な夜な目を醒ました。心の内で燻っていた炎が再び彩りを取り戻すよう、遠い彼方で先人の慟哭が赤々と燃え盛っていたのだった。
後編へ続く
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