公国 君が為に祈る
ペン先と紙の擦れる音が響く。歴史とは人の動き、先人達の痕跡を辿る作業だ。法則的に繰り返される歴史を紐解き二度と同じ間違いを犯さぬために学ぶ――これを怠る者は何度でも失敗するだろう。ヴェラが熱心に様々なことを語っているうち二時間程経過していた。視界の端で欠伸をする生徒を認める。町医者は本を閉じて纏めに入った。
「ミアナハ公国と周辺国の侵略戦争は断続的に行われてきた。数年平和な時期があれば突如他国が侵入してくると言った具合にな」
ヴェルヴェットと視線が合うと生徒はぴんと背筋を伸ばす。彼らは侵略戦争と終戦の目撃者であり、世界の動きを肌で体感した貴重な子供達だった。
「幸い現ルチア大公の治世に代替わりしてから我々は未だ内乱と言うものを経験していない。まあこの先も今のような平和が続くかは分からないが……しかし忘れるな、私の下で『何を』学んだかと言うことを」
室内は静まり返っていた。ヴェラは子供達の中で何かが変わったのを感じ取った。満足して口許を緩めると手を打ち鳴らし、解散を告げる。騒がしい教室の中で白衣の汚れを払い本を小脇に抱えると、不意にくくいっと袖を引っ張られた。振り返ると先ほど授業中に一悶着起こした少女と少年が神妙に佇んでいるではないか。
小綺麗な格好をしたほうが「少し宜しいでしょうか」と口を開く。
「私達、ずーっと議論していることがありますの。なかなか決着つかないから、是非ご意見をお伺いしたくて」
「その……博士は本当に殺されちゃったのかってことで……」
気弱な少年が俯いた。目前の町医者が捻くれ科学者の弟子だ、と承知の上で質問するとは恐れ入る。町医者は胸の疼きを感じながら曖昧な微笑を浮かべた。
「私とも議論をしたいなら、先に自分の意見を表明するのがフェアというものじゃないか」
胸裡の感情をなんとも表現しがたくてついぞ意地悪をしてしまう。すると待ちかねていたと言わんばかりに勝ち気な少女が語気を強めた。
「もちろんです。私は……博士は生きていらっしゃると思います!」
「ほう」
片眉を持ち上げて訝しむヴェラへ、大富豪の息女は大きく胸を膨らませて首を縦に振った。
「ええ! そうですとも! あれほど貴重なお方を殺すなど、いくら蛮勇な連邦国だっていたしませんわ! きっとどこかに幽閉されているのです。我らが先代大公、オルランド様のように!」
町医者は頭を横殴りされたような衝撃に息を飲んだ。オルランド先代大公――酒乱と汚名を着せられ数年前に退位させられた戦好きの公国前指導者。表向きは精神を病み政不能となったため、退位後は静かな地で養生中とされている。が、彼を支持する国民は未だに一定多数存在し、現大公の統治を阻んでいるとも聞く。実際のところは生死は知れず密かに抹殺されたとも国外へ逃亡したとも暗い噂が尽きない男だ。
むろんこれらはオルランド公が戦時下の貧困にあえぐ国民を顧みず、戦好きという自分の欲望を満たすためだけに侵略戦争を繰り返していた悪行に端を発するのだが、戦後の公国がどこか一つになり切れずにいるのは、先代大公の存在が想像以上に大きかったからではなかろうか。
対して博士の場合は、彼自ら連邦国へ赴かずとも命を狙われていたに違いない。だからこそ当時ヴェラは必死に止めたのだ。反乱軍を率いる女の魂胆など端から見ても明らかだったのだから。しかし――あの老博士は慕う者達の手を振り払い行ってしまった。
「そうか。希望を失わないのは若者の特権だな。しかし……私は二度と博士に会うことはないだろうと考えている。でなけれはどうして私と弟へディ・ナターレの名を継がせたのか」
少女はロマン溢れた自分の考えを否定されうなだれた。すると、やおら大人しい性格の教え子が首を傾ける。
「じゃあ先生。もう一つ、聞いても……?」
「ふむ?」
先を促す視線と共に、少年は落ち着かない様子で手を組んだ。
「傭兵ギルドの『地角隊(ちかくたい)』は、今のリナルド大公様が嫌いなんですか?」
「――君。どこでその話を聞いたんだ?」
アルノルド卿率いるギルドが反乱を起こすと馬鹿げた噂が流布している事実は小耳に挟んでいた。だが、あくまで裏の情報に触れることが出来る秘められた領域において、だ。親の噂話をどこかで聞いてしまったであろう子供は大人の顔色を伺い返事を待っていた。どうかな、と白衣の女から不安げな呟きが落ちる。
「公国はいま一枚岩ではない。現大公へ相反する者が軍事力を持つギルドを取り込もうと企むのは何ら不思議なことではないし、実際に国を覆そうとするなら『頭』をすげ変えてでも事を為すだろう。しかしギルド長は百戦錬磨の辺境伯だ。まさか彼が油断するとも思えんが……だが」
壁に耳あり。密偵に聞かれることを恐れ、女は声を潜めた。
「……率直な意見を表明させもらえるならば。絶対にあり得ない、とは言えない」
「まあ! 先生は何か知っているんですの」
大富豪の娘が素早く口を挟んだ。ショックから完全に立ち直った訳でない。強い好奇心に逆らえなかったのだ。ヴェルヴェットは言い淀み苦笑した。喋りすぎたかもしれない。真か偽かも分からぬことで不用意に恐怖を与えるべきではなかったのだ。
「いや――すまない。この話は仕舞いだ。今の噂、吹聴するんじゃないぞ。親御さんが心配するからな。さあ帰って宿題をしなさい」
「はい……。先生、ごめんなさい」
「構わないよ。私にも答えられる質問とそうでないものはあるが。こちらこそすまないな、中途半端なものしか返せなくて」
片手を振ると少年が力ない笑みを返した。軽く会釈をして、まだまだ納得出来ないお嬢様気質の友人を引っ張って行った。
赤髪の科学者は、一人、また一人と去りゆく教室で独り立尽くす。世の中は新しい熱狂を求めて動いていた。抑え切れぬ反発は滑らかな水面に波紋を作る。巨大なうねりは幼い子供達の目に見えるところまで現われていた。恐怖は棄てろ。亡き博士の言葉が蘇る。しかしヴェルヴェットが人間である以上、恐怖を抱かぬということは、死ぬなと宣告されることと等しかった。彼女は浮かぬ表情のまま物音一つしない教室を後にした。
外へ通じる扉をくぐると磯の香りが鼻腔をくすぐる。夕飯時のようだが、未だしばらく大陸一美しい太陽が沈む気配はない。頬を撫ぜる初夏の風は生温かく張り詰めた心をほぐしていった。
「ガルタフト連邦国、か」
接点が多いほど諍いは生じる。連邦国と公国は隣接地であるがゆえに交易も多かったが、いがみ合っていた時期のほうが長かったのも道理だろう。
「オルランド先代大公の強制退位、ギルドの後ろ暗い噂……リナルド大公と密偵どもは何をしているのやら、だ」
そう嘆息した刹那だった。
「どーしたヴェラ、溜息なんか吐いちゃって」
幸せにげるぞ、と陽気な声がこだました。ヴェルヴェットはこの声を幼い頃から嫌と言うほど聞いていた。首を回すと思った通り、丸屋根の上で見知った筋肉達磨が光を浴びている。
――その男、露出狂につき。
先ほど噂に上ったギルドの長を勤めるアルノルド辺境伯は赤茶色の瞳を細め上空から眩しい笑顔を振り落とした。
「浮かない顔だなあ。悩み事か」
「私が何に悩んでいようと卿には関係ないはずだが?」
「なるほど。悩み事というより心配事か」
男は困ったようにイガグリ頭を掻くと軽やかに跳躍し――着地に失敗した。
「馬鹿なことをして怪我をしても治療は拒否するぞ」
重々しい嘆息をひとつ。男は仕事帰りらしい。頬に泥が付いていた。それがまた妙に似合うのだ。辺境伯という貴族的立場であるくせに不思議な男である。露出狂とあだ名される彼は町医者の隣に並ぶと授業道具をひょいと奪う。
「なんだ。返せ」
「持ってやるって」
「見た目だけの男に頼るほどか弱くないのだが」
「酷い言い草だな。毎日鍛えてるんだぞ」
「そうだな。見かけ倒し、という言葉を贈ろうか」
アルノルド卿の軍略に勝る知将なし、と大陸各地から賞賛されて久しいこの男。筋骨隆々で武芸にも秀でている――と勘違いされやすいのだが、盛り上がる逞しい肉や血管は単なる飾りなのである。
「肉体改造へ勤しむ割には、剣の腕も格闘術も最低。……まさにぴったりな言葉じゃないか」
そういえば、きっとこう返るのだろう。「流行に相応しい美しい服を着るには、見た目も大事なんだ」と。しかし、生徒よりたちの悪い男だと肩をすくめると、不意に彼はこう零すではないか。
「落ち込んでると思ったのに元気そうだったな」
はたとヴェラの手が止まった。何を言い出すと思えば。
「何?」
「あ。うむ。口が滑った。忘れてくれ」
呆け顔で誤魔化す男は白い歯を見せて人好きのする笑みを作る。
「……無理な相談だな。説明してもらおうか」
「あー……ったく。だからな。博士が消息を絶った日がそろそろ近いだろ。なら、愛しのヴェラちゃんは落ち込んでんだろうと思ってな?」
なるほど、子供達があの問いを投げかけたのには意味があったのだ。命日とされている日が近いからこそ夢想に更けたい。そんな思いがあったのだろう。しかし今度は彼女が呆け顔を晒す番であった。恩人の命日をすっかり忘れていたのだ。
「そうか。もう、そんな頃だったか。とんと頭から抜け落ちていたよ」
思い出したくないことだから? 現実から目を背けたかった? ヴェラは自問自答する。だが直ぐに「否」と返った。そうではない、受け入れ始めていたのだ。敬愛していた人がもはやこの世に居ないということを認めて前に進む準備が出来たのだ。アルノルドは何かを悟った想い人のかんばせをのぞき込み、
「ほー? 本当に、これといって沈んでる訳じゃあなさそうだ」
ヴェラ自身理解しがたい感情を改めて表現される。そうか、と何かが腑に落ちた。
「博士がやり残した仕事はいっぱいあるからな。沈んでる暇なんて、ないだろ」
恩人を忘れていく一抹の寂しさと、常に進み続けようとするもう一人の自分への驚きに眉根を寄せると、アルノルドが呻き声をあげて顔を伏せた。
「二日酔いで吐くなら他所でやってくれ」
「違う! くっ……痺れた。やはり俺の妻は君だけだ。こうしちゃいられないな。大公に報告して早く式を挙げよう」
「は。はあ?」
何かと思えば蕩けた笑顔でアルノルドが口疾に求婚の言葉を並べ立てる。町医者は、場違いな情熱に一寸硬直すると、強ばった面持ちで後退り、
「こんな真剣な話の最中に……求婚出来るお前の精神が分からない……」
「それくらい惚れてるってことさ。なあ、結婚してくれよ。君のためなら首都へ来るのだってやぶさかじゃないが、もっと近くに……一緒に辺境領に居てくれたほうが嬉しいんだ」
「ふざけるな。激戦地だろう、そこは。誰が好きこのんで命を捨てに行くか」
「俺は普段からそこにいるんだが……だがそんな君も素敵だな」
優しげに細まった辺境伯の赤い瞳は捻くれ博士を連想させた。道理だ。彼と博士、現大公は血縁関係にある――ミアナハ公国は実力主義の帝国と異なり世襲制を登用しているため、上流階級者は遠戚関係が多いのだ。一方、ヴェルヴェットと弟ユリシーズも博士の家名を継いではいるが血の繋がりはない。事実上ディ・ナターレ家は博士で断絶していた。
ヴェラは伯爵の過激な求婚には辟易していたが、脈々と受け継がれる懐かしい目を前に不覚にも目頭が熱くなった。
「俺からの求婚が嬉しすぎて泣いているのか?」
「そんな訳ないだろう。まったく……だが、なあ、アルノルド卿」
額に手を当て細い息を吐く。大きめの声で呼び掛けたつもりだったが、実際に口から出たのは掠れた囁き声だった。受け入れると同時にどうしても気がかりな点が浮かび胸が疼く。
「博士は……思い残すことなく使命を全うして眠りに付いたと思うか?」
認めたのだ。彼の死を。受け入れたのだ。彼の決断を。しかし、叶うなら、彼が安らかに生を終えたのだと信じたい。すると辺境伯は片手を腰に当てぽりぽりと鼻先を掻いた。
「さてな。俺には分からんよ」
願っていた賛同が得られなかったにも関わらずヴェラは曖昧な状態が酷く心地良かった。続く言葉は巣から落ちて親鳥を探す赤い雛を拾い上げる。
「でも、ヴェラはそう願ってるんだろ? なら一緒に祈ってやるよ」
一人で祈るより、二人でお願いしたほうが効果ありそうだろう、と能天気に笑う男が、今はただただ救いだった。
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