公国 緋の問答
「殿下、お目覚めですか」
「いいや。目覚めてない。目覚めていないぞ」
「……ばっちり起きていらっしゃるじゃないですか」
リナルドが動いた拍子に深紅の掛け布が逃げるよう滑り落ちた。しかし大公は気にしない。うつ伏せのままベッドから白い片腕を力無く垂らした。
「診察のお時間です。少しは食べ物を胃に入れてください」
「嫌だ。要らん。後にしてくれ」
見慣れた拒絶に溜め息一つ。平たい額に青筋立てて宰相は佇む。立ち去る気配は微塵も見られず銀髪を短く刈り込んだ彼はベッド脇に寄り添うとリナルド大公へ無言の圧力を掛けた。
「起きて、ください」
「……くそ。面倒くさいやつだ」
我慢競争を制したのは眼鏡だった。なんたってこの眼鏡、一度決めたらテコでも動かない、大公は大公で忍耐力に欠ける。となれば宰相に利があるのは言うまでも無く。勝利の念に満ちた臣下は眼を細めて宙にぶら下がる水花時計を確認した。
「余はどのくらい寝ていた?」
「半日ほどかと」
「なら問題ないな」
まだ寝る、と床に落ちたマントをまさぐり器用に背中へ掛け直す。目尻にたわんだ笑い皺が完璧なハンサムに柔らかな色を添えていた。が、隙はない。この男が敗者に扮して常に獲物を狙う肉食獣と知る宰相は、微かに胃が震えるのを感じた。
「ですが……面会を願う者がおりまして」
「放っておけ」
「しかし、その相手がですね――」
「――あなたに頭を垂れるのが他国の王子でも、拒絶なされますか」
宰相は胸裡で舌打ちをした。手の付けられない人間がもう一人増えたのだ。自他共に狂信者と名乗る宰相は鷲鼻をひくと動かし、直立不動のまま首だけを声の方向へ回した。
視線の先には客室で待機しているはずのミハリス王子が佇む。
「ミハリス殿。客室でお待ちくださいと申し上げたはずですが」
「失礼。口論が聞こえたので」
「いつものことです。ご心配には及びませんよ」
「そうかな。いざ来てみれば、私は門前払いを食らう寸前だったようだが?」
頭一つ分背丈が違う男達。睨み合えど眼鏡は王子から見下される形だ。幾ばくかの非難を込めて弧を描く口元を忌々しげに流し見、ティベリオは勇猛に食ってかかった。
「連邦国の王族といえど許可無く大公の私室へ足を踏み入れるなど礼を失していますよ。どうやってここに入ったのですか。……ああ、失敬しました。『元』王子でしたね」
堅物である宰相にしては最大級に不躾な厭味を放つ。すると砂色の美男子は歳ふりてなお魅力を増す目尻に皺を寄せて、
「ふ。手厳しいね。しかし彼らにとっては、私はまだ王子で通ずるようだ」
――彼ら? 誰のことだ?
地位を剥奪され亡命した彼を未だ王子と認識している人間ならば大公ではない。言うまでもなく宰相本人は除外である。疑惑を呼び起こす台詞に惑わされまいと息吐く間もなく思考を巡らせた宰相は、はたと閃いた。そもそもこの王子がどうやって入室したかだ。最初に宰相が己で問うていたではないか。
そう、彼ら――私室の警備が通したのだ。仮に王子でなくともあの恐ろしき連邦国の重鎮であることに相違はない、失礼は無用だ、と判断して通したのだろう。だとしても、である。
「立場を弁えなさい。良いですか、ここはリナルド様の湖城であって、あなたが暮らしていた『何でも自由に出来る城』ではない」
宰相が虚勢を張ると、やにわにミハリスがくっくと喉を鳴らす。
「先ほどからなんですか」
「いや。ははは、すまない。物言いがあまりに滑稽で。私はあの城を家と思ったことはなかったのに、あなたがそう呼ぶものだから。姉が聞いたらなんと言うだろう。実に面白い」
ミハリス元王子は自国で迫害されていた――この噂を小耳に挟んだ者は多いだろう。爆笑の発端を作った張本人である側近は掛ける言葉が見つからず眉間に皺を寄せた。相手は心底愉快そうに腹を抱えているが、それが苛立ちの裏返しであることも容易に察せられる。
「……私のほうこそ無礼な口を利きました。許しを請うつもりは毛頭ありませんが、あなたが宜しければ大公に取り次ぎしましょう」
「優しいね。でも御方は目の前にいらっしゃるだろう。気遣いは無用だよ」
ああ言えばこう言う。上に立つ者はどうしてこんなに傲慢なのだろう。謙虚さは威厳を損ねるとでも言うのだろうかとティベリオは切り返す言葉を飲み込んだ。王子はその様を正面から覗き込んでいたが、忍耐する男の肩を軽く叩き脇をすり抜けていった。
「リナルド大公閣下。ご多忙なところ失礼いたします。姪のコリンナから情報が入りましたので、疾くとお耳に入れるべく馳せ参じました」
「ほう。で?」
「帝国で囚人が脱走したそうです」
「……そんなことか。そなたの姪が情報を手に入れるより前に、余の耳に入っていたろうよ」
「問題はその先です。囚人は同牢にいた者を多く殺して逃げましたが、被害者の中に公国重鎮が含まれていたようです」
「と言うと?」
「さて。詳しくは何とも。殿下ならその先はご自分で調べることが出来ましょう」
ティベリオはひやりと部屋の温度が下がったように感じた。
「ここまで切り出したなら全部話せ。それが、今以てそなたが余に払える最大限の敬意だ」
珍しく厳つい表情を作る公爵。だがティベリオはそれが演技であることを見抜いた。大公が好む奇妙なお遊びだ。高圧的に威嚇して相手の反応を見る。けれど王子や大公という者は結局同じ穴の狢なのだ。いや、ミハリスのほうが一枚上手だったかもしれない。王子は会釈ひとつで易々と大公の追求を逃れた。そして水先を、なんと宰相へ向けたのだ。
「先代公爵の頃から付き人をしていた宰相殿ならこの話に見当が付くでしょう。まずは彼を問いただすことをお勧めしますよ」
公国宰相は心臓が跳ね上がったのを感じた。だが切れ長に割れた裂け谷の中で目玉をぎろりと動かすだけに留まった。
「王子、過剰なご期待を頂いているようですが……私が知っていることはすべて大公にお話しております。大公が知らぬことは私も知りませんよ」
「あなたほどの優れた臣下が微塵も話が見えていないと? それが真実ならば大公の右腕を名乗る資格などないだろうね」
どうする? と問いかける隻眼が憎らしかった。辛辣な皮肉が心身に染み渡るにつれ、ティベリオはポーカーフェイスを保つことが難しくなった。侮辱、それ以外の何者でもあるまい。
大公片腕である銀髪男は腹に力を込めてこの場を耐えた。正直な話、ティベリオはこの話の全容が既に見えていた。そしてその情報はおそらく大公にとって寝耳に水だということも。というのも帝国には長らく公国諜報員を潜入させており、宰相はもちろん、大公にも凡ての情報が通達される。……が、例外もある。先代の大公が潜入させた工作員だ。これらは当時居た者しか事情を知らず、当時まだ跡継ぎだったリナルド殿下には知らされていない情報の一つだった。
ミハリスが示唆しているのは、その内の一人が命を落としたという情報なのだろう。だが――前大公の話はリナルド公にはタブーだ。宰相は敢えて地雷原を渡らせようと誘導してくる王子が憎らしくてたまらなかった。言葉巧みに掌の上で転がされているのだ。それが分かった側近は悔し紛れに下唇を噛み、大公へ「失礼致します。また後ほど参ります。話の続きはその時に」と吐き捨てるようコートを翻した。
乱暴に響く足音を横に大公は枕に埋めていた顔面を横へずらし蠱惑的な赤茶色の瞳を覗かせる。
「あまり虐めてくれるな。少し頭が堅いだけなのだ」
「必要悪になっただけです。あなた方は依存しすぎている」
「私が、ではない。あいつが、だよ」
「同じことです。あなたは先が長くない。ご自分が居なくなった時のこと考えてもっと動くべきです」
「は。はっきり言ってくれるな」
堅い人間は簡単に折れてしまう、と大公はぼやき、興ざめしたように欠伸を放った。それから「で、用件は終わりか」と話の先を促した。
「あれ以上言及しないんですね」
「ティベリオが後で話すと判断したのなら、話してくれるのだろうよ。余は有益な情報が入るなら相手が誰でも構わん」
要は誰も信じていない、そんな口ぶりに聞こえた。
「同じ穴の狢だ。そなたも、余も」
「謀る者は地獄に落ちる、ですか」
しかし、と大公。
「毎度手を患わせてすまないな。姪のコリンナも手放すには惜しい人材だ」
蒼白な顔に二点の紅が光る。心からの賞賛だった。だが大公は彼女をいつまでもここに置いておけないことを十二分に承知していた。
終戦後もなお水面下で対立している連邦国と公国。王族を匿っていることは伝わっているだろうが、表立って問題になればこの国は混乱に陥る。悲しいかな、今の疲弊した公国には連邦国の総攻撃を凌ぎ切れる国力が残っていなかった。
長い沈黙を破ったのは大公だった。
「ミハリス。余がお前たちを匿ってどれくらい経つ?」
「四年になります」
「四年か……コリンナも美しいおなごに成長したものだな」
妙齢の娘ならばお洒落や恋もしたいだろう。王子は言外に含められた意味を察知し細く息を吐いた。
「懐古するなど無駄なこと。私達には後戻りする道は存在しないのですよ」
祖国へ戻れば命はない。なれば自分らしさを捨てても命をつかみ取る。自由などという言葉は生き延びなければ意味がないのだ。
王子はやおら響く足音に耳をそばだてた。無機質で規則的な足音の持ち主は元気を取り戻した宰相だろうか。彼はものの数十秒でここに辿り着くと炎の絵が描かれた大扉を勢いよく叩き、
「謁見を終了してください。医者が参りました。体調より雑談のほうが大事というなら構いませんが」
「わかった。騒ぐでない。まったく姑か、お前は」
「殿下がご結婚に乗り気ならこれほど嬉しいことはありませんね」
「ああ、悪かった。もうお前を虐めさせないから、結婚の話は勘弁してくれ。余は全てのおなごを平等に愛しているのだ」
くだらない言い争いを傍目に、連邦国元第三王子は開いた扉を音もなく潜り抜けた。時刻は昼過ぎ。珍しくからりとした空模様だった。明け放れた扉から廊下の先へ消えていく王子には、その背を見送るリナルドの呟きなぞ届かない。
「……戻る道がないのではないだろう。ミハリス、お前が自ら断ったのだ。コリンナという至宝を道連れにして」
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