ルアハの花

序章 竜頭争奪戦

第一話 背信


 あるいは贖罪。あるいは原罪。あるいは――。

*

 裏切る、とは相手を信ずるが故に生み出される心地である。信じたのは自分か、あるいは彼女か。気ままに生き人々の間をふらつく者には無縁な言葉だったがミハリス王子にとってはその生き様を体現した、生涯忘れることの出来ない一言だった。
 彼は頭の芯が冷える感覚を伴って覚醒した。瞬きを数回、辺りを見渡せば身体の下から頭上へ勢いよく突き抜けていくものがあった。〈竜の西翼せいよく〉地域では決して溶けることのない雪片だ。男は淡い風花が地平線の向こうでほのかに青白く煙っているのを認めると同時に、白い砂漠の往来へ力なく四肢を投げた。
 ――突き落とされたのか。
 宙を掻く指先を辿ってまたたく極星をうち仰げば尖塔から身を乗り出すそれがいた。無聊を怨ずる女のかしらには小降りの六花が咲いている。ひらりと大きく垂れた袖は花の蜜を吸う胡蝶を思わせたが、窓際の向こう、裏切り者と罵る姉のまなざしに背筋が凍り付いた。
 だが後悔はしまい、違えたこの道を。重力に身を任せ決意をぽつりと吟ずれば罪悪感に押しつぶされそうな心が軽くなった。
 いっさいの始まりは今から遡ること十余年前、あの女が、愛する父兄の首を斬り落とした日にある。しかし祖国にとってはそれすら茶飯事に埋もれる小さな出来事であり、長年に渡ってミハリスを歪ませて来た絶望はガルタフト連邦国のお国芸とも言える終わりなき派閥争いの、ほんの一幕に過ぎなかった。
 すべからく血を血で洗う諍いはゆっくりと民を疲弊させて来た。何百年にもわたって繰り返された政権交代は、さもありなん、今日の大陸戦争下でも変わらず支配者の悩みの種となっていったと言う。それでも領土を守り通したのは狼王レヴァンの尽力あってこそだが、譫言を呟くあの姉は国王の首を刎ね自らの頭へ冠を頂いたのだ。
 不意に焼け付くような憤りに胸を焼かれ男は我を忘れかけた。しかし折に触れて正気に呼び戻す声が凛と耳朶を打った。
「ミハリス叔父さま! 今お助けします!」
 深い昏い闇に囚われし背信者を燦然と照らすは長兄の落とし子。わざわざ下を見ずとも分かる。姪のコリンナだ。近頃めっきり女らしくなった亜麻色の娘は巧みに手綱を操り猛火のごとき勢いで城門を通過していく。けれど城下に響くひづめの音は一つではない。背後より幾多の衛兵が弓をかざしているではないか。激しい剣戟、馬のいななき、姪の掛け声。刹那に過ぎる景色がミハリスを鋭敏に刺激した。
 彼は腹の底から湧き上がる喜悦に身を震わせ、豆粒ほど遠くなった姉へ向かって、
「姉上。私はミアナハ公国へ参ります。〈竜の頭あたま〉を支配するというお考えを変えない限り、次に相まみえる時は敵同士でしょう」と夜半のしじまに尖った声音を張り上げた。
「は。そもそも、そちに味方など居た試しがあったのか」
 王子の決意に駁するは渓谷を彩る瑠璃花に勝るとも劣らぬ青ざめた顔。ミハリスは堪らず失笑した。
「失敬。しかし味方がいないのだから、端から敵となる存在もいませんね。でしょう?」
「詭弁はそちの十八番だな。いつもいつも中身がない……その左目と同じ。しかしまあ今回に限っては道理に適っている。誰も彼も、ミハリス・ゾイという人間を瞳に映してこなかったからな」
 せいぜい後悔しろ、と極寒の女王は捨て台詞を残して引っ込んだ。海と見紛う青き花々に祝福されし渓谷城は悠々と遥かな天を貫き、縦長の窓を着飾るステンドグラスの裏に虚栄と疑心を隠し続けていた。
 嗚呼、昔は仲睦まじかったのにどこで道違えてしまったのだろう。凍て付く言葉の応酬に過去の傷を抉られたのが自分だけでなければ良いのに、とミハリスは願い、それから白に盲いた瞼を伏せた。姪の健闘だけが儚く脆い知覚を際立たせて彼を現実に繋ぎとめていく。
「何をしているのです叔父さま! そのままでは死んでしまいます!」
 敵の剣を奪い取った少女は馬背の上で大立ち回りを演じていた。急所を狙い討ちする矢尻を叩き落とせば、魔術師牙使いによって所構わず生み出される刃物から馬を守る。つと、音の波紋を読み取り戦況を察したミハリスはおもむろに姪へ属目を向けて、屈め、と叫んだ。助言に従った亜麻色の少女が身を低めるとすぐさま二、三本の矢が頭上を擦り抜け城壁に激突して瓦解。その光景は彼に不思議な高揚感をもたらしたが、ミハリスは再び沈黙を貫き、風圧に逆らって身を捩った。
「――二人とも殺せ! 生死は問わんとのお達しだ!」
「くっ……! 状況を分かっていらっしゃるのですか、叔父さま!」
 焦躁した声色は衛兵達の怒号に掻き消される。だが姪の悲鳴をしかと聞き入れていたミハリスは、ちらり、地面との距離を目算し、刻印の入った石を取り出した。地面はすぐそこ。寸分の猶予もなく墜落してしまうだろう。けれど彼は慌てる素振りもなく石を撫ぜ、両の手を大きく広げた――ただそれだけ。
 だが見掛けの穏やかさとは裏腹に次いで鳴り響いたのは大気を揺るがす轟音であった。
「魔法ガルだ! 気をつけろ、王子は異能持ちアルケミーだぞ!」
 強固な大地が引き裂ける。存在しなかったはずの巨木が幾重ものとぐろを巻き立ちふさがる。その様はあたかも大口開けて獲物を見定める大蛇のようだった。やがて猛々しい樹木は庭や城までも飲み込んでいき、少女の命を奪わんとしていた追っ手もろとも暗幕へ覆い隠した。
 かくして中年半ばに差し掛かってなお美しさに衰えを見せぬ男は軽妙に木々を伝い折よく駆け付けた姪の愛馬へ飛び乗ることに成功した。
「叔父さま、よくぞご無事で」
「これくらいは。お前は平気だったかい」
「この通りです」
「うん。それは良かった」
 一見すると社交辞令である。二人は元々おしゃべりな性格ではないにせよ殊に今夜は口数が少なかった。だがその中にも多少なりお互いの気遣いを感じ取れ、今この時はそれだけで十分だったのだ。
 中年男と少女は緊迫した空気の中を駆け抜けていく。ミハリスが姪の腰へ手を回し、それを合図に手綱が強く奮われた。未だ成長を続ける木々の間を掻い潜り疾風の如く突き抜けると少し進んだところで一人の衛兵が立ち往生していた。だが少女が「はあっ」と一際大きく牽制すると栗色の駿馬は天高く跳躍し、瞬く間に兵士の頭上を飛び越えていった。
 少女は馬と一体化し他の追随を許さない。亜麻色の娘は滑らかな動作で綱を操り内乱を憂う月夜から逃亡を図るのだ。その姿はさながら舞に酔いしれる踊り子であり、叔父は人知れず微笑んだ。
 寸刻後、二人はようやく人工的に作り出された深森を抜けることが出来た。けれども暴れ馬の速度は緩まなかった。彼らを運ぶ栗毛は雪代に濡れる春宵の渓谷から一気に遠ざかり黙々と走り続けた。その間何を言う訳でもなくミハリスは、幾ばくか東、王家の渓谷から漂う瑠璃花の芳香へ意識を寄せた。
 不意に叔父が口を開く。
「コリンナ?」
「はい、叔父さま」
「頬の傷はどうしたんだい」
「……狩りに巻き込まれまして」
「そう」
 それきり会話も途切れてしまった。コリンナもミハリスも次第に遠ざかる故郷へ想いを馳せていた。馬は西へ西へと三日月を追い越し公国との国境いへ向かっている。ガルタフト連邦国の辺境、西方に位置する最高峰ソラス・ナ山脈を越えるためだ。麓にはこの時のために旅支度を隠してあり、準備は万端――この心を除いて。
 しばらくすると星明りに輝く小川が遠くに認められた。せせらぎが心地よく響き一時悲しみを緩和してくれる。彼らは勇気づけられて躊躇うことなく川を渡り切るも、隠れ家へ近付くにつれ達成感と郷愁は相交わり、心中で互いに攻めぎ合っていた。
「ここが国境手前となります」
 当初落ち合う予定だった場所だ。姪が暴れ馬を止めて昔馴染みの衛兵へ敬礼を返せば、多少の行き違いはあったものの万事計画通りに事が進んでいるように見えた。ミハリスは地面に降り立ち土を掘り起こすと、かねてより準備していた荷物を取り出し一回り大きい自分用の黒狼へ器具を取り付けた。真っ直ぐに伸びた小さな背を横目に鉛のような重い心で宵闇に溶け込むローブを羽織る。
「私の準備は出来た。さあコリンナ、お前も心を決める時だよ」
「とうの昔に。おじいさまがお隠れになった日より、我が誓いは胸に」
 なんと逞しい少女だろう。慣れ親しんだ故郷を捨てもう二度と目にすることがないかもしれないと言うのに。清廉で可愛らしかったコリンナは髪を高く結い上げこの先待ち受ける困難へ備えていた。亜麻色の幼き少女は長い長い旅へ向けて子供と言う身分を捨てる決意をしたのだ。
 失意に埋もれぬ大きな瞳が彼を強く見返していた。そのきらめきはこの数年消えかかっていた叔父の生存本能を刺激した。ミハリスはこんないたいけな少女に苦渋の決断をさせた王国と時代を強く呪い、そして我が父・狼王と王太子――コリンナの父親であり彼の長兄――が慈しんだ祖国を愛しくも思った。
 潮騒のように渦を巻いてうねる白き山頂を仰ぎつつ、裏切り者の名を欲しいままにしてきた王子は「隣国ミアナハ公国は知っているね」と重々しい沈黙を破った。
「宿敵を知らない国民は居ません、叔父さま」
 姪がやんわりと子供扱いに抗議するとミハリスはくすりと喉を鳴らし「なら話は早い。コリンナ、私はお前が監禁されていた間にミアナハ公国の大公と密約を取り付けた。彼は我々を受け入れ、匿うだろう」と亡命計画の片鱗をさらした。
「辿り着くためには難攻不落の雪峰を越えなければならない。ここから先は絶冬、君の剣術など無意味だ。生き残りたいなら私の指示を必ず守りなさい」
「……はい。王太子リガスの血にかけて」
 視界を遮る六花は白い光の縞を投げ込んで彼を突き落とした人間を彷彿とさせた。白は異形の色だ。闇と等しく思考を奪うそれに触れて人が正気で居られるはずがないのだ。
 やおら黙り込んだ叔父を物案じた姪が、慄然に襲われ紫に染まった唇から弱々しい不安を零した。
「叔父さまもガルを使い過ぎて倒れないでくださいね。ここから先は……国外ですから」
「心配無用だよ」
 可憐な亡命者はちいさな笑みを浮かべた。出会ってから初めて零した笑みである。彼女は狼の上へ載せた荷物の手綱を引いて一歩、足を踏み出した。最初は怯えたようにためらい、それから堂々と。奥へ進めば進む程、少女には何の躊躇いも見て取れなくなった。
 二人の姿が幽玄なる山々に溶け込み静寂だけが取り残される。第三王子としての肩書きもついに捨てることになろうミハリスは見納めに一度だけ振り返った。雲間の向こう、不可視の碧落にて渓谷に佇む神殿の鐘が鳴り響いた。 


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