波間にさんざめく星明かりが湖城を照らす心地よい夜だった。ミハリスの影が涼しげな石壁へ映し出され、子守歌のように不規則な律動を刻んで揺らめく。 しめった空気は雷雲を伴い、嵐前の静けさを漂わせていた。だが活気ある公国首都クレプスクルムを見下ろせば、数日前、他国による奇襲があったと思えぬほど、亡命者ミハリスと姪を庇護する現大公の治世がいかに壮健か一目で分かる。 それでも、戦争は続いていた。第三王子が少女と共にミアナハ公国へ落ち逃びてから一年の歳月が過ぎていたが、日がな一日、愛していた祖国が内側から崩れゆく音に沈痛の念を抱かずに居られない。 ――姉上。なぜあなたはそこまでして抗うのか。 戦況は既にこちらへ傾いている。しかし女王率いる連邦国はしぶとく食らいつき、魔術を駆使して山脈以西の勢力へ小さからぬ損害を与えていた。 この戦いは連邦国で起きた内乱に端を発していた。火種となったのは当時失踪中だったミハリスの姉・アリアドネ姫。彼女は魔術師中心に構成された反王党派軍を率いて派閥争いに名乗りを挙げると、十余年前、ついに女王の座へ君臨。と同時に権力を手中に収め、禁断の領域〈竜の頭〉を不法占拠した。 こうして厳冬の女王は、現在まで続く第三次竜頭戦争の火蓋を切ったのだ。 とはいえ各国も指を咥えて眺めている訳ではない。数年前に公国が〈西翼〉と和睦を結び、帝公盟軍協定が成立して以来、東国が白旗を揚げる未来もそう遠くないと期待されていた。だが相手もさるもの――必死の抵抗に火が付き、事態はいっそう泥沼へ向かっただけだった。 折節、歯車仕掛けの時計が刻限を告げた。滑らかに開いた扉から衣擦れが耳朶を打った。晴れない面持ちで貌を覗かせたのは公国の政を司る宰相殿だった。 「お仕事中に失礼いたします。ミハリス殿下」 「やあ宰相殿。どうぞ掛けて」 仔牛革を張った黒檀の椅子を勧めると、宰相は気もそぞろに「お加減はいかがですか」と相手の顔色を窺った。 「変わりない。どうかしたのですか?」 「本日の礼拝にお姿が見えませんでしたので。連日の仕事続きでお身体を壊されたのかとリナルド大公殿下が気に掛けておられました」 すると王子はやにわに思い出したそぶりで、大仰に手を叩いた。 「礼拝。そういえば忘れていた。申し訳ない」 その一言に訪問者は銀糸に象られた睫毛をゆるく伏せ、表情を隠した。声音はひどく落胆している。否、そう見せている、と表現するべきか。 「そうですか……お忘れなら仕方ありませんね。しかし、まさかとは思いますが、祈りの儀式だけは毎日行っていらっしゃるでしょう?」 「え? ああ。それも数日前から忘れ――」 不意に、宰相の広くなだらかな額へ青筋が走った。 「ミハリス殿下。この国に居る限りは我々の流儀に従って頂くと申し上げたはずです。その時に最も大切なこともお教えしました。この国で欠かしてはならないこと――それは現人神である大公殿下への敬意だと」 あなた方を救った御人がよもやどなたか忘れた訳ではないでしょう? と怒気を帯びて信仰心を求める堅物男は公国頭脳ティベリオ・タランティーノ宰相。王子は開口一番に神への忠誠を説く狂信者を今すぐ部屋から叩き出したい衝動に駆られるも、洗練された動作で腰を折り、たおやかに非礼を詫びた。 「ご無礼をお許しください。命からがら逃げのびた姪と私を匿い、衣食住を保証してくださった大公殿下への恩義、日々いたく感じております」 美丈夫は人好きする笑顔を貼り付けた。ついでに、神は信じない質だがね、などと胸裡で悪態付くのを忘れない。 「ところで別件で私にご用事があったのでは。夜も遅い。手短に話して頂きたい」とミハリスは心底申し訳なさそうに柳眉を下げた。 この提案は疾く疾くと物事を推し進めたい宰相のお眼鏡に適ったようだった。咳払い一つ、中肉中背の盲信者は目尻をつり上げた。 「では前置きなしに申し上げます。あなたの姪御殿がまた貴族の子息を泣かせました。まったく何度目ですか……これ以上続くなら庇いきれませんよ。城を預かる身として、躾のなっていない者を大公殿下の側へ置くことに賛同しかねます」 大公だって躾のなっていない色欲男だろう。なんて、口から飛び出そうになる反論を飲み込み、ミハリスは軽い微笑を片頬へ浮かべた。 「おやおや。元気な証拠じゃないか」 「そうやって甘やかしている。ですが、あなたが本気で止めれば暴れ馬であっても耳を傾けるはず。彼女は、叔父上のためなら何でもするでしょう?」 敵愾心を匂わせる物言いに瞳を眇めたのはどちらだろう。真意を読まんとミハリスが覗き込んだ硝子玉は暮れなずむ夕闇を彷彿させた。対して、宰相は紫色の瞳を細め、優しい軽蔑を込めて語気を強める。喧嘩を買う相手は決まって貴族、我が国家へ対する敵対行為として牢に入れたっていいのだ――と。 途端、ミハリスが弾けるように腹を抱えたので宰相殿は口を噤まざるを得なかった。 「牢ね。ははは。傑作だ」 「殿下、何が可笑しいのですか」 「だってあの子は幽閉なんて慣れ切っている。意味がない」 宰相の機嫌をいっそう損ねた自覚はあった。しかし連邦国の元第三王子は笑い皺を深くする。喧嘩を売っておいて負ける側に問題あるのでは、とは流石に言えず。蒼白な頬骨に読めぬ表情が駆け抜けた。 「ですがまあ、そうだな。対策は考えよう」 年頃の少女をこのままにしておけないのも確かだった。彼の愛すべき姪が不名誉な待遇を受けるのは親族として喜ばしくない。なによりコリンナは、かつては父親譲りの気品を備えた淑やかな少女だった。なのに、やむなく過ごした監獄生活の折、すっかりじゃじゃ馬に育ってしまったのだ。 加えて、あの年頃というのは向けられる敵意へ敏感である。敵国王家の血を引く者、背信者と名高い王子が連れ帰った少女、国を捨てて逃げてきた亡命者――同い年の子供達が彼女を虐げるには十分すぎる肩書きが揃っていた。むろん彼は可能な範囲で守ってきたつもりだが、激化する戦争への対処に追われ、目の行き届かない部分がどうしてもあった。 ミハリスは透かし彫りの机へ寄り掛かり、口の重い、まだ青臭い少年のように唸った。 「お手を煩わせたこと心から謝罪する。しかしコリンナの処遇については少し待って頂きたい。私から一つ提案があるんだ」 続けて、と宰相殿がようやく椅子に腰掛ける。短くも丁寧に整えられた銀髪が、ちょうど真上にある蜜蝋の灯りに晒された。清廉と貞淑の教義に似つかわしくないほど蠱惑的に煌めく月冴えの色。そして、身を象るは濃灰色のローブだ。ちらりと見える赤い内着に聖なる鳥の崇拝者は美しい炎を認めるのか、沸き立つ血脈を見出すのか、神を崇めたことがないミハリスには判断付かなかった。 「単刀直入に申し上げる。あの子の問題行動は傭兵ギルドに関わらせることで緩和できるかと」 「傭兵ギルド? その話は立ち消えたはずでは。多くの反対票を経てギルド創立は白紙に戻されましたよ」 蒸し返すなと言わんばかりに公国第二位の男は歯を剥いた。けれど問題児の対処に困っているのも本当だ。聞く耳持たぬティベリオが憤然と足組を解くも、妖艶に目を細めた小憎らしい敵国王子に静止されて踏みとどまる。 「はあ……こんな夜更けにわざわざ人目を忍んで来たのです。仕方ないので拝聴します」 どうせなら貸しを作って帰るのも悪くないと思いなしたのだろう。男はさあらぬ体で椅子に沈み込んだ。それこそ相手の罠だと知らずに。 足掛かりを掴んだと確信したミハリスは人知れず口角を上げた。元王子は何年も前に破棄されたはずの原案資料を棚から取り出し、概要をおもむろに読み上げ始めた。 「傭兵ギルド。それは肩書きや宗教による制限を設けず、金銭と引き換えに、能力ある者へ大小の問題を解決させる仲介組織。実力主義を掲げる大陸の支配者・オルドーグ帝国では『騎士団』と名を変え、市井にとり身近な制度となっている。最大の利点は階級間の利害の一致。下の者は身一つで成り上がる機会を得られ、上の者は余計な労力を払わずに物事を解決出来る――相互に利益が見込まれるため、帝国が国を挙げて活動奨励した結果、民間の職業軍人まで生まれ、広大な領土を支配する皇帝の一助となっている」 「仕組みは存じています。その概要を書いたのは私ですから。それ以上読み上げる必要はありませんよ」 「そうだったね、失敬した。ははは」 空嘯いて微笑めばティベリオ宰相が舌打ちした。これで最上位聖職者なのだから公国も大概である。 「ミハリス殿下、傭兵ギルドに益があるのは理解していますよ。しかし公国では未だ実装に至っていない。身分を重んじる貴族社会で実力主義など掲げては、能なき者として貴族が蹴り落とされかねず、社会に混乱を来すからです」 いわんや、ここにいる宰相殿は反対派の筆頭である。ミハリスも、さしで向かい合う男がこの制度を嫌っているのは知っていた。しかし当国には背に腹を代えられない差し迫った事情があるのも真実で。 「宰相殿が宮殿の秩序を保ちたいお気持ちはわかるよ。だが一つ伺いたい。ただでさえ戦場にされやすいこの国が、次にまた攻め入られた時、持ちこたえるだけの力が国軍に残っていると?」 口では毛嫌いしているが、相手は仮にも国政を預かる身。心の底では分かっているはず。この制度を真に必要としているのは、いちはやく導入した帝国より、戦火に晒されやすい公国だと。 ここミアナハ公国は豊かな自然に恵まれた反面、火山や地震といった天災が絶えなかった。人が腰を落ち着ける場所も少ないため両隣の国ほど人口に恵まれず。更に絶冬ソラス・ナ山脈を隔ててガルタフト連邦国と隣接するせいで小競り合いが頻発。平時でも国境防衛に余力を割かねばならず人手不足が顕著なのだ。 となれば肩書きや実績に拘らず、有能な人物を民草から集い、雇用の安定と効率化を図るべきではないか。そんな世論が追い風になるのも自然の成り行きだろう。 「結構。それ以上、ご高説頂く必要はありませんよ。十年以上続く戦争により若き働き手が消えていく中、この国が新たな労働形態を必要としていることは理解しています。起案を白紙に戻した一方で、いよいよ改革に身を乗り出す必要があるかもしれない、と我らが大公が仰っていた事実を今更隠す気もありません。ですが……」 それと、ミハリスの姪がどう関係してくるのか。宰相は謀られているのではないかと唇を舐めた。すると王子はにぱっと破顔し飄々と告げる。 「ここからが本題だ。もし貴国がギルド創設を認めるならば、私も協力しよう。その際に我が姪コリンナを創立メンバーの労働力として提供するのは如何か」 なにせ日々鍛錬を行っている高名なご子息方を、多勢に無勢で伸すほどだ。彼女の戦闘能力は折り紙付きでしょう、と茶目っ気たっぷりに気を吐き、 「失敗した際は私に全責任を押し付け、発案者はしがない亡命者だという噂を流布して構わない。姪のためなら進んで悪役にもなるよ」 男はからりと締めくくった。なにせ身の保険がなければ動かない連中だ。咎の矛先を定めてやらねば食指すら動かないだろう。片や、ミハリスにも自らを悪役に据えてまで形勢を傾かせたい思惑があった。 「なるほど。人柱として貴殿の姪御殿を提供する……そういうことですね。常ならず、前例のない新設組織を成功へ導くのは過酷な仕事になります。一人でも多く手を拝借できるのは心強い」 ティベリオは意義深げに首を傾けた。だがあの手この手と言葉を尽くしても宰相は明確に諾とは発しなかった。 「ミハリス殿下。私は貴殿が誠意を伴い意見を述べてくださっているから真剣に耳を傾けています。実際、この案はどれも興味深く、そして具体的だ。ですが――姪御殿に関する提案は、さほど魅力的な申し出とは思えませんね」 一つに、この国は女性が戦うことを良しとしない。しかし王子の物言いでは、積極的にコリンナを戦闘部隊へ配属しろと聞こえる。二つ目に、王子が姪をギルドに潜り込ませて裏から繰る計画がない、とは言い切れないことがやり玉に挙げられた。 亡命を決意した十年以上も前から、ましてや現大公のクーデター時代から公国へ貢献してきたにも関わらず、この男は私を信用していないのだ、とミハリスは微かな落胆を覚えた。しかし道理だ。たった一度でも何かを裏切った者はどこへ行っても偏見に追われ続ける。人の「目」はそう易々と変えることが出来る代物ではない。 ミハリスは瞬刻、どこからか聞こえた慟哭を頭の片隅へ押し込めて、 「ではこうしよう。あの子を幹部に上げなければ良い。ならば機密情報を見ることは出来ないし、誰かに指示を出したり、暗躍することも不可能だ。私があの子に何を命令しようと権限が無ければ手は届かないだろう? 二つ目の憂慮についてはもっと簡単だ。閣下はご法度である女子が戦闘員として戦場に配属されることを危惧しているようだが、そもそも竜の血を引くあの子を、人間だとか女性だとかで分類出来るものだろうか」 それでなくとも内政の転換期である今、門戸を広げる絶好の機会なはず――色好みな大公の閨相手は別にしても。宰相が硝子に映る麗しい男をじっとりと睨め付けていた。彼一人では思案に余る内容であると双方承知していたので、ミハリスもこれ以上畳み掛けない。ほどなく宰相殿は眉の間を微かに曇らせて、 「確かに……竜をも食らうと言われたあの戦闘能力を、利用しない手はない。竜返りは一人で一大隊に匹敵すると言われてますからね」 組織新設にあたり懸念材料は多々あれど、最たるものは人員問題である。民間から働き手を集い人手不足を補う、それは良し。だが素人集団では困る。ましてや国家元首たる大公直属組織になる以上、国軍に比肩する強さ、上品さ、規律正しさが必要だ。民間から騎士を募った、素朴で名高いあのオルドーグ帝国でさえ皇帝親衛隊は上流階級と接するに相応しい気質を備えている。 だから額を突き合わせながら宰相殿は意識の奥でこう考えていただろう。何を置いても、国事を任せるに足る実力者をまず確保しておかねばと。 ただし、と宰相は手袋の皺を伸ばし横目で問うた。 「大前提。どうやってあれを手懐づけるのですか? 放り込んだだけであの暴れ馬が他人の言うことを聞くようになると?」 「いいや。しかし組織の中で成長させることは出来る」 だからこそ、一つだけ、約束してもらわねば困るのだ。 「――そのためには必ず、姪の働きと実力に見合った報賞を与えて頂きたい」 熱弁を振るっていた王子が颯爽と座席を立った折り、初めて宰相殿に大きな反応があった。 「もちろん押さえつけるのは容易い。私が一言命令すれば別人のように耳を貸すだろう。だが、それではあの子は轡を付けた猛獣のままだ」 コリンナが暴れる原因は大半が相手にある。しかし彼女もまた、必要以上に傷付けている。その理由をミハリスは痛いほど理解できた。コリンナは亡命者でもなく指名手配犯でもない、一人の少女としての尊厳を欲し、それらを奪わんとする者を力の限り追い払っているだけなのだ。王子は姪に幼き自分の影を重ねて拳を握りしめた。 「まっさらな組織を利用して姪御殿の自尊心を育てる、と。は。殿下は意外にも教育者のようだ」 悪い噂があっても、大公殿下の息が掛かるギルド内で評価されればご子息方もおいそれと手は出せまい。えてして彼女を貶める者が消えれば、自然と大人しくなり宰相を悩ます事案も減るだろう。ミハリスには、政治犯や重罪犯と生活を共にした大監獄へ多くの価値観を捨て置いて来てしまった姪が地の底から這い上がるには、最早この方法しかないように思えた。 「あの子は母親の地位が低いからと城を追い出され、父親によく似ているというだけで政敵にされた。それでも懸命に生き、ようやく安寧の地へ足を踏み入れた。私達大人が手を差し伸べずして、誰があの子を導けるのでしょうか。どうか深いご理解を宜しくお願いします」 ティベリオは途中から目を瞑っていたが、やおら胸元を彩る羽根に触れ、引きも切らず祈りの言葉を捧げ始めた。赤き鳥よ、神なる炎よ、我が決定に是非を下し給え、聖なる炎で厭わしき心を焼き払い給え……。 * ミハリスが宰相から色よい返事を貰えたのはそれから十分後のことだった。その間彼はのべつ幕なし、意味不明な呪文を唱え、悪魔の取引を申し出た男の存在など忘れてしまったかのようだった。 宰相の信仰心の厚さには脱帽せざるを得ない。最も、クーデターを乗り切り、戦争続きの治世をここまで安定させているのだ。頭脳明晰な曲者に違いないが、ティベリオ・タランティーノの突出した美点は宰相としての知性より、枢機卿としての献身深さだとミハリスは思った。 王子が暇そうに見守っていると大公の右腕はつと口を噤んだ。それから冷淡な口調で、ミハリスが話し合いの最中に公言しなかった秘部を容赦なく小突いた。 「亡命者とは言え、他人である殿下がなぜここまで我が国を想うのか……いや、なぜ我々にギルドを創設させたいのか、私は不信感を隠せません。音に聞くミハリス・ゾイ殿下は、単なる恩返しのために行動するような御方ではありませんからね」 姪のため? 家族すら裏切った男が? そんな嘘が通じるとでも思っているのか、と言外に込められた詰問へ亜麻色の王子は交渉決裂を覚悟した。しかし宰相は気恥ずかしげにふいと目を逸らし、 「ですが私は宰相である前に一人の神官です。迷い子を正しき途へ導くのも我らの使命。姪御殿が未だ道を見つけられず彷徨っているなら、あなたの仰った方法で手を取りましょう。そして――ここが肝要な部分ですが――何かあればあなたは自ら泥を被ると申し出ました。ですから――」 ――いいでしょう。その話、承りました。 打って変わって、ティベリオはおよそ聖職者と思えぬ底知れぬ笑みを浮かべた。上層部のことは任せなさい、近い内に話を纏めて来ますから心の準備をお願いします、といつの間にか取ったメモを片手に。 「都合の良い男とお思いかもしれませんが、あまねく人々へ炎の加護を与える大公殿下の名をつまらぬことで汚したくないのです。御方はミアナハ公国にとって神に等しい存在なのですから。『ご理解』、頂けますね?」 食えない男である。弱気なんだか強気なんだか分からない。羊の皮を被ったなんとやら、とは言い得て妙だった。 夜も深かった。ミハリスが気怠げに一瞥くれると、正当な報酬を与える代わりコリンナには馬車馬のように働いてもらうべしと続けて結論が下された。時期は無期限。彼女の名がいつしか「実力主義」の代名詞となるまで続くだろう。 将来を想ってとは言え、大人達の勝手な都合で茨の道を課された少女はこの定めを嘆くだろうか。いや、涙すら流すまい、と自嘲した。揃って国を捨てた日に前を向き言い放っていたではないか。国王や父親が亡くなったあの日から、ずっと覚悟を決めていたと。 「本当にこの選択で宜しいので」 「ええ。あの子が死ななければ、いくらでも」 間髪いれず握手を返せば一夜の取引は終わりを告げた。腹の内すべてを見せた訳ではない。だが互いに実りある時間だった。その証拠にティベリオは立ち去る間際、こう約束したのだ。 「万事上手くいけば報酬をご用意するのもやぶさかではありません。殿下が喉から手が出るほど欲しがっているもの、あると伺っていますよ」 願ってもない申し出だった。しかし信用された訳ではない。ただ、利用するに足ると判断されただけだ。それでも構わなかった。今はまだ彼も姪も不自由だが、地道に勝ち取っていけば良いこと。ギルド創設はその第一歩に過ぎないのだ。 寝着を羽織ると、あの宰相が自信過剰なほど堂々と餌に吊した褒賞についてミハリスは考えを巡らせた。可能性があるとすれば公爵家の隠し持つ古文書だ。竜大陸において最も古き王朝の歴史を持つこの国になら、魔術に関する秘跡が眠っているかもしれない。手に入れる価値は十二分にある。 「能なしどもがのさばるこの国で、さて、どう作ったものかな」 人は聞きたいものだけを聞き、信じたいものだけを信ずる。ならば彼らが見たいものを見せてやればいい。ミハリスはあれだけギルド制の必要性を熱弁したにも関わらず、強固な貴族制度を貫く公国で真っ当な実力主義の法則がまかり通るとは微塵も考えていなかった。だが、それを謳った別種の制度を献上することは出来る。 王子は寝室の窓から東の空をうち仰いだ。今宵も夜空に悲しげな獣の慟哭が響き渡る。幼少の頃はミハリス少年だけに聞こえるそれが耐えがたく、夜も眠れず父親や長兄を困らせていたものだ。けれど今となっては、己が己であることを確かめる一種の指標となっていた。いつとはなしに小動物が側へ擦り寄り、潤みある一対の瞳が暮れ簿の裡に瞬いていた。