ルアハの花

一章 金の撚り糸

第一話 幕間・仮面劇


「戦争を起こすのは為政者ではない。熱狂と言う快楽に包まれた大衆だ」
 アストゥーラ著『青き花々』第三章、第二十六節――

*

 脆くて柔い檻の中にセルジュはいた。手を伸ばせば突き抜ける。そうと望めばこの狭い空間から出づることは至極容易に思えた。弾力のある壁に身を沈めていく。優しく包容され赤子に戻ったようだ。全てが純白であるがゆえに何も見えない。彼はほうと息を吐いた。身を包む仄かな温もりが心地良いのだが、どこか薄ら寒い気もする。始めは気にならぬ程度だったのに、それは次第に強まり、もう一度深呼吸をした。
 めいいっぱいぬくもりを堪能すると、やがて青年は動き始めた。ひとまずは絡み付く壁を振り払わねばならぬ。だが穏やかな空間に長くいたせいか身体を動かす度に怠惰の感情が顔を出してくる。努めて逆らおうとするのだが、もがけばもがく程、身体に、心に絡み付いた。
 セルジュは強引に腕を突出した。途端に柔らかな薄膜が破れて向こう側に手が抜けた。突破った穴から刺すような冷気が唸り声を上げて侵入してくる。凍り付く感覚が纏わりつく怠惰を一掃していった。その刹那に何か生暖かいものが指へ触れたような気がした。それは少し湿っていて、ザラザラして。
「――なにゆえ」
 にわかに透き通った声が響く。青年は瞼を薄く押上げた――その目は翡翠、否、美しい新緑から掃いたような金色へ変化していく。彼と、彼の「先生」だけが持つ異形の瞳。魔力の流れを見出して世界の奥底まで見渡すことが出来る特異な――今はその目を以ても視界は盲いているが。
 けれどすぐに、それは間違いだと気が付いた。よくよく見ると白妙〈しろたえ〉に銀灰色の球が漂っているではないか。さながら夜空に煌めく明星の如く光を放っていた。
「なにゆえ――」
 なんだ? 誰が囁いている? 
 囚われた身のまま青年は白亜の空間に目を走らせた。視力を奪わんとする白夜が広がっているだけであるが、その明星は男と距離を縮め、周囲を旋回しながらもう一度。
「なにゆえ」
 先程から問い掛けているのはこの球か。セルジュは自問自答した。波紋を残す言葉は宙へ溶け、尾びれを引いて消えていく。抑揚のない声色は鎖で繋がれた地下牢の老人を連想させた。気おされたセルジュが黙ったままでいると、銀灰色は螺旋運動を始める。一つ、二つ。球は数を増し、回転速度を上げた。それに伴い圧迫感が解かれていくことに気が付いた。ようやく自由になった彼は上半身を起こす。と、二つの明星が目前で静止した。そのまま眺めていると、球の少し下、二つの間に三角錐が飛び出る。更に下へ割れ目が現れ、薄桃色に染まりゆくのだ。
 やがて輪郭が出来上がり、首、胴体、手が生え、女人の姿を形成していった。彼女は色の変化に富む長髪をなびかせ、膝を付く男へ顔を寄せる。
「なにゆえ――」
 その先は決して口にしない。答えなき問答。尻切とんぼでは望む答えなど返るはずもないのに、それでも問い続けるのだ。
 なにゆえ。なにゆえ。繰り返される台詞はセルジュを正体不明の恐怖に駆りたてた。女は一歩踏み出す。男は這いつくばったまま後退さる。しかし意思を持った髪に手首を取られ、それ以上は叶わない。頬にそっと生温いものが触れた。指先に触れたものと同じ感覚――艶めかしい女の舌だった。セルジュは気味が悪くなり我知らず顔を背ける。すると湿っぽい舌は目元を舐める。だから、良い加減にしてくれ、そう伝えるべく頭を振り被る。するとまた、なにゆえ、なにゆえ、と、しどけない口調で女はそれしか言わない。
 セルジュはうんざりして眉をしかめた。そうして銀灰色の瞳を見返すと、女は甘やかな香りを残して身を引いた。困惑した表情が浮かんでいる。彼女は不思議そうに首を傾げた。拒絶されたことが理解出来ないようだ。目元の唾液を拭う青年に、もう一度、女は声を発した。
「――なに、ゆえ」
 刹那、セルジュはその言葉にどこか違和感を覚えた。幾分声の質が変わったように思えたのだ。たどたどしい口調につられて視線を上げる。すると女の藍色と青年の金色が絡み合った――そう、「灰色」と。
 僅かな間に、女の瞳は銀灰色から暗い灰色へと変化していた。左目はいまだ明星の輝きを保っているがこうして見ている間にも徐々に色を変えていく。しかし変貌を遂げる女の変化はそれのみではなかった。波打つように変化する髪色は亜麻色に、血の気の失せた美しい容貌は丸型に。時を経るにつれて目鼻が中心へ集まる。その身丈は半分以下に縮み、男が我に返った時は、幼子と見紛う可愛らしい姿が目前にあった。長い髪に三つ編みを混ぜたあどけない少女は瞠目する大人へつたなく問い掛けた。
「なにゆえ、貴方は――?」


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