白いむら雲が連なる。山脈は波打ち、アリョーシャの手の内で跡形もなく霧散した光子が散り散りの遠望を映し出す。手では捉えられぬもの、微小なものが描くそれは実に雄大で見る者すべてを圧倒させるに足るものだった。 しかし残念なことに、アリョーシャの世界は彼女しか知り得なかった。人間が感知できる光彩は数に限りがあるからだ。アリョーシャは光に揺らめく足を踏みだし――つま先が床を蹴る度、陽光差し込む水面のごとく不均一な波紋の輝きが辺りを照らした。 「レティシア、レティシア」 微粒子は波となり、空気の振動を紡ぎ出す。アリョーシャは女の名を繰り返した。近頃めっきり顔色が優れぬあの女はきっとここにいる。光の届かぬ暗闇。もっというなら、アリョーシャが他の光に邪魔されることなくいかんなく輝きを発揮できる絶好の場所。 ぎぃ、と蝶番が重々しい音を立てた。意外にも中は清潔で、つや消し加工された旧式の武器がまたいつでも使えるよううずたかく積まれている。物置部屋の丸窓にはカーテンが掛かり、細かな刺繍で軍の紋章が施されていた。色は赤茶と紺。動脈と静脈を彷彿させるそれは布地の上で交互に綴られ、見事に軍旗の代役を担っている。レールとカーテンの隙間からは光が漏れていた。しかしそれもほんの僅か。もうすぐ正午だというのに、部屋全体が夜明け前のようなほの暗さを呈していた。 誰も居ない部屋で、女は何かから身を隠すように四隅のひとつ、入り口に立つアリョーシャからやや隔たった場所で縮こまっていた。この部屋でどれほどの人間が仕事合間に抜け出し、身を横たえたのだろう。探し人からほど近い壁際には一般規格の男性なら十分すぎるほど広いソファが鎮座し、男装したその人は漆塗りの肘掛けへ気怠げに顔を伏せていた。 渋い浅黄色の髪が紺碧から藍色、黒濡羽からまた白練りへと、とめどなく態を変える。アリョーシャは声を聞かずとも、それが探し求めていた色だと悟った。 「レティシア、見ぃーつけた」 後ろ手で扉を締めると追い払うように細い手が動いた。その拍子に壁のどこかが軋んだ音を立てる。 「アリョーシャ、来るんじゃないよ。そのまま帰りな」 アリョーシャが探し求めていた女――否、本人は男と主張してやまないが――レティシアは皺だらけのコートを床へ放りだし、くぐもった声で遮った。白き雪ん子は思案する。だかそれもつかの間。よどみない足取りでレティシアの隣、骨組みが見える使い古しのソファへ腰を落ち着かせるのだ。 「今日はどこ行くの」 「どこにも行かないね」 「けど、もうお昼よ」 「……行かないったら行かないんだよ」 アリョーシャにも声色の違いは分かるはずだった。事実その通り、彼女は首を傾げてしばし押し黙った。レティシアの周りを波打つ色の変化が不協和音を奏でている。波長の異なる幾重もの波が女の周囲をたゆたい、縛り上げるよう身体中に絡みついていた。 「レティシア、色が変だわ」 光を支配するべく産み落とされた昏〈こん〉は身を乗り出し女の髪を引っ張った。汗ばんでいるのに、さらさらと指の間を流れるそれはアリョーシャを愛してくれた女の髪。この感情をなんと表すかなどこの妖が知るべくもないが、彼女が人間へと羽ばたく可能性は胸の奥でさやかに息づいている。アリョーシャは幼く、だがしかし理性と機知が見え隠れする顔をしかめた。手を伸ばす。引っ込める。瞠目する。魚群のごとき白雲が諸手を広げ、肺の奥から吐き出されたレティシアの深い息を招き入れる。埃に混じって、アリョーシャだけが見えるちいさなちいさな粒子が舞った。同じ色を見ているはずなのにくるくると変化する光彩を人の感情というものに見立て、アリョーシャは華奢な肩を控えめに揺すった。 「ねえレティシア。今日のお日様は橙色だよ。真ん中へいくにつれて金色になって、だけどまあるいお日様の縁を、細く黒い糸が渦を巻いているの。あれは糸車だって、 アトゥイがいってたわ。くるくるくるくる、くるくるくるくる、楽しそうにみんな廻ってたの」 アリョーシャは声を弾ませて告げる。しかし朗らかな台詞に返るのは無言のみ――それでも娘は話し続けた。己しか見えぬ天の川が、こうすることでレティシアの瞼に焼き付くとでも言いたげに。 「レティシア、外に出て、一緒に見て。 アトゥイがとても綺麗な日だと褒めてたくらいなのよ。ねえ、目に焼き付けようよ。くるくるくるくる、光が廻るの――」 その先をどう話したのか、アリョーシャは覚えていない。ただ光の奔流と、決壊し意味を成さぬほど縮れた紫苑色の波形が女から迸り、アリョーシャの脚を、腕を、首を取り巻いたことだけは解った。 「うるっさいな。さっきから聞いてれば、光がどうとか、目に焼き付けるだとか。勝手な事ばっかいってんじゃないよ!」 ――新しい色が、生まれる。 瞬間、アリョーシャの脳を駆け巡った思考はそれだった。これが「生きた」色なのだ。時間とは、色とは、人が生きた痕跡なのだ。人が纏う色はすべて異なり場面場面で変化はするが、その人間がもつ色の型は大概が固定されている。快晴が透き通る青のように普遍の名を冠する色がある。だがアリョーシャは絶えず新しい色を見つける。どうしてだろうかと幼心に不思議に思っていたが、今、その瞬間に立ち会うことができるのだと、名も無き光彩に目を奪われた。 アリョーシャは一度は引っ込めた手を真っ直ぐレティシアへ向かって伸ばした。激情から産まれんとする色は熱く、烈火のごとく感情が暴発した女自身のように一切の抑制が効かなかった。 レティシアは小さな手を乱雑に振り払い、地の果てから絞り出すような咆哮を上げた。 「僕にかかわるんじゃないよ、アリョーシャ。大体、いいよなあんたはさァ。未来のすべてが光り輝いていて、ただでさえ人より色んなものが見えるんだ、世界が真っ暗になることに対する恐怖なんて微塵も感じたことないんだろう」 振り払われた反動で腰が抜けたアリョーシャは静かに面を上げた。かみしめた唇。最近付けたばかりの眼帯は放り出され、焦点の合っていない瞳が宙を見据える。そして小刻みな肩の震えを認め、人造妖の監視者であるレティシアがこの状況を決して楽しんでいる訳ではない、ということを認識した。 「見えないんだよ……どんどん消えていくんだよ、光が! アリョーシャ、あんたが謳う、輝く世界ってやつの温度がもう感じられないくらいに僕の身体はガタが来てるんだよ!」 もう一度立ち上がろうとして、アリョーシャはソファの真ん中へ放り出される。骨組みにぶつかった痛みに呻くとレティシアはほんの一時息を止めた。 「わ、悪い。大丈夫か」 それはいつもの彼女だった。しかし幼い目にはたしかに、寄せては返す新たな光子の波を捉えていた。アリョーシャは無事である旨を告げ、白い身体を支える細腕を伝い、ゆらゆらと揺れる身を起こした。娘の無傷を悟ると糸が切れたように女は力なく崩れ落ちた。石畳の床の上、光の妖という解語の花の足下で、彼女は声にならぬ慟哭を上げた。その間アリョーシャは単なる観客ではあり得なかった。感情を理解できぬ者がどうして観劇できようか。だが十を過ぎたばかりの人造妖は滑るようにソファを降り、苦悶に歪む女の顔を覗き込んだ。その顔は氾濫した涙に覆われていた。光の娘はレティシアの両の頬をそっと包み込み、瞼に唇を落とした。与えられてきた愛情へのせめてもの恩返しなのだろうか。人間を模した娘は洞穴でうずくまる女を慰めるよう、同様にもう片方へも親愛の証を落とした。 「ねえ、助けてよ……怖いんだ……」 至って冷静な、しかし極限まで押し殺された悲壮がレティシアからこぼれ落ちる。だがその中で光彩は紡ぎ合わされ始めているのだ。 「レティシアは目が見えないの? 身体が苦しいの?」 「日に日に見えなくなるんだ。だから早く人魚の肉を食べないと……僕は、不死にならないと」 するとアリョーシャは唐突に手を離す。冷たい床の上で仰向けになると固く瞼を閉じた。 「……なにしてるんだ、アリョーシャ」 「光を見てる」 「目ェ瞑ってんでしょうが」 その反応が予想外だったのか、アリョーシャは垂れ気味の瞳を開くと弾かれたように笑い始めた。 「光は別に目でみるものじゃないのよ、レティシア」 「はあ?」 「光は目じゃなくても見える。聞こえる。目が見えないなら肌で感じればいい」 娘はからからと笑った。 「ねえレティシア、目なんて信用ならないものよ。いま見えている色や形だって光が変わればぜんぶ変わるんだから」 それよりも、とアリョーシャは飛び起きる。鏡面のごとく静かな水面へ水飛沫が一滴垂らされたように、光の波紋を感じた。きっと女の周りに新たな色が生まれたのだ。 「レティシア、あなたは色を作り出せる人。どんな時も新しくなれる人。あなたが私の世界をみたいなら、いつだって『見方』を教える。――知ってる? 輝くものだけが光じゃないのよ」 どこからか隙間風が吹いていた。それは視界を塞いでいたカーテンを揺らし、鬱々とした部屋の中にささやかな陽光を差し入れる。窓に背を向け、逆光であったはずのレティシアはあまりの眩しさに目を細めた。