四方は面妖な音に目を覚ました。からからと空虚な音が耳に絡みつく。いつのまに寝てしまったのか。判然とせぬ頭で気怠げに辺りをまさぐった。冷えた囲炉裏の灰、鉄さびの匂いが濃い畳。触覚を通して違和感を覚える。 首をもたげると室内を照らす緩やかな陽光が申し訳程度にくりぬかれた丸窓より差し込んでいた。細長い木造の部屋である。十畳間の中央に黒檀の仕事机と書きかけた書簡――となれば父親の部屋に違いない。 「糸?」 ぐるりと視線を走らせると天井には蜘蛛糸のように細い白糸が張り巡らされ、生気のない糸車の上で乾いた笑いを零していた。ただ一人、車輪だけがせわしない。その傍らにすが糸を手繰る白い女の手があった。 「何奴か」 四方は警戒心も露わに脇指しを構えた。すると娘は、感情のこもらぬ顔でこちらを一瞥、何事もなかったようにまた紡績へ専念するのだ。 ――なんて白い。 白磁のような女の子だと思った。まつ毛も、瞳の色も、つま先から巻き毛の一本一本まで。血管さえも白いのではないか、と勘ぐってしまうほどの白練りは薄暗い部屋でほのかに光を放っていた。 「みなはどこへ行った。この部屋で会合があったはずだ。そこな者、なにゆえこの場で糸を紡ぐ」 四方は己の置かれた状況を掴みかねた。しかし少女に敵意はない。武器どころか、手荷物一つ持っていないことは見て明らかだ。四方は脇指しを鞘へ戻すと四つん這いになり這うように前進した。もっと近くで不審者と言葉を交わし、隙あらば捕えようというわけだ。だが仕事机の脇をすり抜けたところで彼女は別の呻き声を耳にする。 足のない男。両の足を欠損したそれは見知った顔であった。年の割に皺が多い顔、喉元に走る横皺はたるんで雪崩れ、真ん中に鎮座する喉仏だけが時折思い出したようにひくつく。彼は彩度を抑えたくすんだ紫色の着物に、家紋を縫い付けた黒い羽織りを纏っていた。まさしくそれは、この花散里〈はなちりざと〉で最高位の高官だけに許された装束であり、四方の父に相違なかった。 彼女は驚いて横臥する肉親を揺さぶった。 「父上、どうなさいました! しっかりしてください」 陰陽師の集落、花散里に所属する実力者を代々とりまとめてきた萬屋〈よろずや〉家当主の瞼が弱々しく開いた。 「よ、もか……お前は、無事だったのだな……。妹の紗々、は、どうした」 「存じません。私も今し方目覚めたばかりなのです」 肉親の身を案じながら何も出来ないことに臍を噛んだが、すぐに父親を心配させまいと面を厳しく引き締めた。 「誰に襲われたのです。父上に怪我をさせるなど、ただ者では」 「いいや、何者でもない」 四方の言葉を遮って父は続けた。 「十数年前、我々の犯した罪が復讐という名で成就した……それだけのことだ。だが注意せよ、四方。あれは終生、お前と紗々の背を追い続けるだろう」 今際の際に痙攣する手足を暖かく包んでやると男の震えが伝染したのか、四方は名状しがたい恐怖に包まれ悪寒が全身を駆け巡った。苦しげに一旦言葉を切る壮年の男。朗々と心地よかった彼の声は悲しげに掠れ、息を吐き出す度に肺から喉へせり上がる血がごぼりと響いた。 「ああ、そうだ……我が五臓を引き裂き、業にまみれたこの肉塊から、かつて奪われたものを取り返したように……報いが我らを迎えに来る」 瞑想するような声音が愛しい父親を遠き人にする。黄泉水へ還りつつある男の吐息は、四方には到底理解できぬであろう深い諦念に満ち満ちていた。えてして、彼女はようやく男の腹部が大きく引き裂かれていることを認める。食したものが通っていたろう細長い小腸がはらわたからぞんざいにはみ出し、松喰鳥を象る金の刺繍が体液と汚物を含んだ朱を吸い込んでいった。 「四方よ……『標的』となった以上、この先も私が生き延びることは不可能だ。お前の助けを借りて落ち延びたところで、やつらはどこまでも私を追うだろう。だがお前達のことはまだ知られておらぬ。……妹を、連れて逃げよ。白い女など放っておけ、お前が、業を背負うことはない」 額に浮かぶ玉汗をぬぐってやると父親は深く嘆息し、やおら大量に血を吐いた。四方は赤く濡れた指先で弱々しく力尽きた頭をかき抱いた。もう一度、糸紡ぎの白磁を仰ぐ。 「白い娘よ。手を貸して欲しいんだ。いますぐ治癒をせねば父は死んでしまう……おい、聞いているのか」 ひょっとしたら耳が遠いのかもしれない。だから今度は少々大きめに問い掛けようとした時だ。白磁色の娘がつと手を止めた。それから、初めてそこに人がいることに気付いたといった体で、穴が開くほど二人を凝視する。薄く開いた唇から微かな空気が漏れ、無感情な言の葉が宙へ溶けた。 「――ねえ」 ゆらり。儚く揺れるは白い瞳。 「人はなぜ、業と知ってなお、罪を背負おうとするの」 娘が糸から手を離す。車輪が一層激しく回る。部屋の中は空っぽな音で満たされ、ざわりと肌が粟立った。そして白い指先は床の塊――四方は自分達以外の生き物が同じ空間にいることを知り戦慄した。手足を千々にもがれ、死屍累々と横臥する仲間の遺体を認めるや、せり上がる嘔吐を耐えるのに精一杯であった――を指差し、 「この集落はもうじき崩壊する。けれど糸車は回り続ける。あなた方が生きている時代、彼らが生き抜いた時代、そう、何世代も前からずっと――」 すべて言い終える寸前、壁の向こうで轟音が響き勢いよくふすまが開いた。かと思えば鋭利な黒刀を握る黒ずくめの男と、青みがかった柔らかな髪を少し捻って束ねた着流しの女が姿を現わした。若い女は紗々、四方の義妹だ。妹は黒い男に引き摺られて中へ立ち入り、部屋中を見廻すや否や瞠目した。いつも優しく四方を見詰めていたまなざしは床へ釘付けになる。彼女は父親の死骸と血まみれの姉に怯えて塗れた畳の上を後退った。 「あ、姉上……父上は……!」 「手遅れだ」 妹の絶叫を黒服の男が遮った。彼は紅蓮の瞳をぎらつかせ、息絶えたばかり、肉塊と化した二つの骸へ剣先を突き刺して苛立ち紛れに抉った。 「花散里の女流術士、萬屋四方〈よろずやよも〉。お前を父親殺しの罪で連行する」 黒服は幕府の手の者だろうか。加来〈かく〉と刺繍された腰帯に拭いきれぬ鉄錆びが染みついていた。四方はもう一度、白磁の少女を見やる。そこには小さな闇が落ちているだけであった。