ネモフィラ渓谷リメイク前 第一章
第三話 流浪の足跡
「ランスさんっているかい? 電報が届いてるよ」 「ああ、はい。ありがとう」 「恋人かい。良いねぇ若いってのは」 「あはは……恋人がいたら、もう万々歳なんだけどね」 残念、弟からなんだよ。ランスことカイザは若干寂しさが混じった笑みを返し、ぼそりと呟いた。この宿屋は故郷シザール北方の国、クァージ国の関所前。彼が王国を旅立ってから数ヶ月が経っていた。下町の騎士にやつして偽名を使い、かねてより興味があった名所を訪ね歩く。だが容姿端麗な彼は行く先々で目立ってしまうようだ。日焼けした腕をめくり、電報に目を通した。それからすぐに丸められる。 「異常ナシ」 これだけが書かれていた。つまり特筆すべき事件は起こっていないらしい。 「……にしても、もう少し愛想ある文面でも良いだろうに」 そう思うも、あれに愛想を求めるなど骨折り損に他ならない。弟の性格は熟知しているつもりだった。 「無事って分かっただけでも良っか」 同じく一言近況を書き記すと気合い十分に宿を出た。 すると突然。くい、と衣服の裾を引かれた。 「ん?」 「……お恵み、ください」 引き留めたのは物乞いの少女。薄ねずみ色の――元は綺麗な白だったのだろうか――みすぼらしい身なりの子供。焦げた肌にぎらぎら白目だけを光らせ、両手を差し出す。 「騎士さま。どうか食べ物を」 「ごめん、いま手持ちなくて」 「なんでも良いんです。残飯でもなんでも」 「そうかい? じゃあ残り物だけど」 道中食べようと思っていたパンの残りを手渡す。といっても数口分しかなかったのだが、手のひらに押しつけられたものを認めると少女は煤けた顔をほころばせた。 「ありがとう! おじさん!」 「おじ……?!」 「きゃははっ」 少女はおませに首を傾げ、ひらり。カイザと距離を取る。己もそんな年だったろうかと小さなの背〈せな〉を見送れば、彼女は大きなツバ付き帽子を被った男の元へ駆け寄った。 「メイルズ、ごはんもらったわ!」 男を一言で言い表すなら悪人面。眼鏡形に象った黒硝子は狡猾な光を帯び、精一杯陽気にみせようと歪めた口元が一層柄の悪さを際立たせる。彼は白い歯を覗かせ、 「良いもンもらったンじゃん。明日一日は安泰だな」 一口ちょうだい。手をさしだす。華奢な顎は女性を思わせた。だがやんちゃな声色は間違いなく男性のそれだ。 「やーだ。メイルズにはあげない」 「いつも世話してやってんの誰だと思ってンだよ」 「ギルドのおじさん」 「いーンや俺だぞ、お金持ちの俺様だ」 「何言ってるのよ、メイルズは違法な事ばっかしてるくせ」 「あー! あーあーあー!」 言いさしの台詞を遮り、男は奇っ怪な声を張り上げた。その時ちらりと見えた腰布に、ちぎれんばかりに中身が詰まった袋を認めた。懐豊かというのはあながち嘘でもないようだ。だが会話の端々から、合法的に稼いだ金ではないのだろうと想像を膨らませる。 「人様に聞かれてたらどうすンだよ! お前も生活できなくなンだぞ!」 「あんなことするくらいなら、物乞いしたほうが良いもん」 「お、れ、は、嫌だ! いいか、金あってなンぼの人生だかンな!」 刹那、男が面を上げた。サングラスの隙間から向かいの騎士を伺いみる。自分のことを棚にあげ、胡散臭そうにこちらを観察してきた。 「あンれ……あンたさっきの。いやあーあンがとな。こいつに食いもン分けてくれてさ」 「どういたしまして。お礼と言ってはなんだけど、道が訊きたいんだ」 「おうよ、なんでも聞いてくンな。俺は湖からこの辺までを縄張りに活動してる商人だから、細かい道まで知ってンぜ」 気前の良さを主張するように颯爽とサングラスを外すと、男は地平線へと視線を送った。日は高く、海に漂う小さな微生物のようにぽっかり浮いていた。 「有り難い。で、湖に行きたいんだ。ここからかなり遠いかい」 「湖に? あーそれなら止め――いンや、往復十五日くらいかね」 「遠いんだね。……でも、今何か言いかけなかった」 「大したことじゃない。暑いから気ィつけろって言いたかっただけだ」 商人はくしゃっと笑った。邪念のない笑顔に毒され、納得してしまう。心に引っかかるものはないかと問われれば別だが、非日常の旅が心を浮き立たせていたのも確かだ。カイザは礼を告げ、合法組織の監視の目をかいくぐる商人へ別れを告げた。 「でもなんか腑におちない」 王子の呟きは流浪の風に吹かれて消えていった。 * シザール、アイリス、クァージ。北へ北へと北上し、三日前この国に着いたばかり。故郷の心配性な弟と連絡を取る為、数日動けない日々が続いていたが、それももう終わり。関所で入国手続きを済ませ、軽い足取りで国境を越えた。先ほども告げた通り、彼はまずラシーヌ湖へ向かうことにした。馬車ですれ違う人々は鮮やかな衣服を身に着けている。見たことのない植物も沢山生息していた。カイザは紙切れを取り出して気がついたことを一つ一つ書き留める。暇つぶしを兼ねてのことだが、なにより知識や思い出はあるに越したことはない。 「よう、旅のお人、あんたどっから来たんだい」 「シザールだよ。まだ着いたばっかりなんだ」 「シザール? はぁ〜こいつぁ驚いた。あの冷血漢の国からかい」 「冷血漢? ……あのー……念の為に確認するけど、キース国王のことかな」 「そいつだよ。他に誰がいるんだってんだい」 「あー」 弟ながら酷い言われようだ。しかし真向から否定出来ないのも事実。シザール国王キースは英雄と称えられている。だがそれは国内のみにすぎず、他国からすれば彼は単なる侵略者くらいにしか映らないのだろう。想像してみてほしい。領地を奪い、自国の拡大を図るその姿はなんと冷たいことか。しかしカイザは本来の弟を知っていた。愛しい妻との約束のために生涯を掛けた不器用な弟を。 「あんな国王でも、優しいところはあるんですよ?」 「そうだな。自国の国王を悪く言うやつなんているもんか」 「あ、あはは……ご尤も……」 どうやらキースの良いところについて話し合うつもりは毛頭ないらしい。カイザはぺろりと舌を出し、再び物思いに耽った。こう言う人間は言い分に賛同してくれない人間に出会うと、相手が「そうだ」と言うまで持論を語る。早々に切り上げたほうが無難である。 「どうだこの国は」 「良いところですね。ちょっと暑いけど」 「そりゃぁシザールが寒すぎるんだと思うぜ」 「ええ、言い得て妙です」 湖は国端に位置し、辿り着くまで少なくとも五日はかかる。したがって御者とは二週間契約を結んでいたが、これ以降もこの調子で行くのだろうと考えるとなんとなく胸が重くなった。 カイザがまどろみから覚めると、辺りの景色から新鮮味が消えてしまったように感じた。景色を眺めると言う唯一の楽しみも失せ、馬車旅は退屈を極める。そして次第に懐かしい思い出に浸ることが多くなっていった。王位だとか継承だとか、堅苦しいものとは全く無縁だったあの頃。キースが王位を継ぐ意志を固めなければ、弟が戦争に身を費やすこともなかった。そしてシザールもあれほど大国にはならなかっただろう。人生には何があるのか分からないなあ、と平々凡々な結論に達した時。ふと異変に気づいた。馬車の速度が落ちている。 「どうかしました?」 「ああ……前に……」 「前?」 なるほど。窓から身を乗り出すと、一本道の先に黒い塊がいた。子供だろうか。小柄なそれは真直ぐにこちらを見ているように思えた。なにせ顔が見えない。だから身体の向きでそう判断したに過ぎなかった。馬車は停止に向かい、黒の前でピタリと静止した。御者と黒とで話し合いが始められる。一時カイザは取り残された気分になった。そしてそのまま手持ち無沙汰で着席していると声を掛けられた。 「旅のお人、この兄ちゃんが湖まで相乗りさせて欲しいってよ。どうするかい?」 「……お願いします。用心棒としてでも良いので、乗せて頂けませんか」 「困ってる時はお互い様。一緒にどうぞ」 持ち前の柔和な笑みでその塊を招き入れた。黒い物体は深く礼をするとスルリと乗り込む。礼を発せられた声は少女のような少年のような。つまり、それだけでは性別を判断しかねるものだった。車輪の音が響く。馬のひづめが響く。乗り合わせたものの沈黙を保つ二人。しかし背後で絶え間なく続く騒音が気まずさを緩和していた。しばらく経った頃、不意に黒い塊が被っていたフードが取り去られた。見たところ十七、八くらいの綺麗な少年だ。金色の瞳がきらきらと輝いている。流れるような黒髪は上で束ねられ、上品かつ活発的な印象を彼に与えていた。 彼は身の丈程もある大剣を立て掛け、前を向いた。 「突然申し訳ありませんでした。俺はシェオールと言います。相棒が湖にいて、早く行かなきゃならず……」 「ああ、そうだったんだ。僕は――ランス。旅の間仲良くしようよ」 「はぁ」 「ところで、さっき用心棒だとか言ってたの何?」 「貴方は外国の方なんですか」 「うん、来たばっかりでね」 本日二回目の台詞。するとシェオールは再び「はぁ」と漏らした。あっきれた。そんな声色だ。それを聞いて御者が豪快な笑い声をあげた。しかしカイザの方は何がなんだか分からない。だからひーひーと喘ぎ声が収まったところで思い切って尋ねてみた。 「僕、何かおかしいこと言ったかい?」 「おかしいって言うか。湖に向かう前、ちゃんと調べ物しましたか」 「調べる? これから行くところが、有名な観光地ってことは知ってるけど」 「……表向きは、ね。それで合ってます。でもラシーヌ湖には最近有名な話がもう一つあるんです。残虐な賊が出るって言う」 「ぞ、賊……?」 「そう。だから御者も戦える人間しか許されないし、大抵の人間は用心棒をつけて行く。あなたは、例外みたいですが」 こんな人間初めて見たよ。 一対の金色は微かな軽蔑を含んでいた。カイザは恥ずかしくなり、頬を掻く。そういえば、やけに馬車代が掛かった。それはこう言うことだったのか。つまりあのおしゃべりな御者は選りすぐりの人間なのだ。命が掛かっているのだから高すぎるなどと文句は言えない。しかし幸運なことにまだ賊と対面していなかった。カイザは弛んだ精神を奮い立たせ、背筋を伸ばした。小馬鹿にした視線が若干弱められた気がする。だがシェオールは相変わらず何も発せず、再び馬車内を沈黙が支配した。 夕暮れが近付いている。くっきりと木々のシルエットが浮かび上がる。切り絵のような景色に見とれつつ、カイザは徐々に明るさを失っていく空を傍観していた。今日はこれで終わりだ。月を見上げ、野宿する旨を切り出すべく視線をずらした。無言のうちにシェオールから承諾を得ると、少年はフードを被り直そうと動く。その時だった。控え目な芳香が、ふわりと漂う。それはカイザがよく知っているもの。大好きな、あの香り。 「シェオール君、ネモフィラって知ってる?」 「は……?」 自然と口が動いていた。しかしカイザの発言は相手を困惑に陥れてしまったらしい。少年はフードを被ろうと半分持ち上げたまま茫然としていた。それから突然思い出したように深く被り直すと、真っ黒な暗闇から小さな声を返した。 「知ってます。丸くて、寒いところにも咲く青い花。何でですか?」 「今ネモフィラの香りがしたんだ。僕、幼い頃から大好きでね」 「ふぅん」 「でも二年前にシザールとレダンは国交が切れてしまった。だから近年は希少な花になりつつあるんだよね。密輸するにしてもレダンは今独裁中だから、色々規制が厳しいんだろうなぁ……」 カイザは嘆息し、かつてネモフィラの花々が溢れていた自室を思い起こした。 「ほぉ……旅の人、あんた国際状勢に詳しいんだな。やっぱり今の時代何にでも興味をもたなきゃ満足に生きていけねー。あーなんつったか、独裁してる女帝は」 彼らの会話に無理矢理御者が割り込んで来る。そして、それ以降はめくるめく御者の世界。 「あ、アリス……アリエル? いや、それもちげーなぁ」なんて、誰も聞いていないのにまくし立てる。情報通だが、正確な情報を記憶している訳ではないらしい。御者が使い物にならぬ知識を大声でまさぐっている間、カイザも「何と言う名前だったろう」と思考する。 すると、始終黙りこくっていたシェオールが隅に身を寄せ、ぽつりと呟いた。 「アリアドネ。アリアドネ=レダン」 その一言で、カイザは魔法に掛けられたようだった。頭のもやは取り払われたが、同時に新たな靄も現われた。気になっていたことが明白になり、爽快になる。しかし開かれた視野は何かを見落としていた。人間の網膜には一点だけ像を結ばぬ箇所がある。まさにそんな感じ、盲点。曖昧で実に不明瞭だったが、カイザはその存在を確かに感知した。だが一方の御者は全く気が付かない。彼は歓喜の声を上げながら楽しそうに馬を操った。 「ああ、そうだったそうだった! アリアドネ女帝だ。ボウズ、あんたも物知りだなー」 「……別に。だって俺、レダン出身だから」 「そりゃほんとか? わっけーのに苦労してんだな。レダンっていやぁ……」 御者はさも物知り顔で政治批評を始めた。カイザはほとんど無視していたが、「分権社会が、突然独裁に変わって上手くいくはずがない」とだけ耳に入る。 だがカイザは一つとして意見を出さなかった。先程のもやが口を噤ませていたのだ。なんたって、外見を見て語るなんてことは誰でも出来る。だからこそ憶測だけでレダン国の実情を批評するのは避けたかった。――殊に、シェオールの前では。その後ゆっくりと馬が停止した。御者は扉を開き、シェオールを未だ褒めちぎっていたが、少年が背負うオーラはどことなく重たいものだった。 彼は下車を手伝う御者の手を軽く払い、一人で降りる。そして地面に降り立つと野宿の用意を始めた。小さなシェオールは、後ろから見ると大剣が一人で動いているようだった。つと、少年は立ち止まる。前方から生温い風が吹くと、風下にいたカイザは香るネモフィラに包まれた。黒衣から覗く金色が、どこか哀愁を帯びていた。
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