ネモフィラ渓谷リメイク前 第一章
第四話 魔科学の男
「良い子だ。さあ、おゆき」 晴れ渡った碧空に紅の小鳥が舞う。舞い落ちた羽根は仄かに虹色の輝きを纏い、神秘性を帯びていた。青年はひとひら、翼を拾うと大木に身を寄せた。暇を弄んでいた片手を左目の眼帯へと当てる。 「馬鹿な人達。盗賊の分際で、本気で僕に敵うとでも?」 事切れた愚か者に到底聞こえるはずもないが。寄せる波、返る波。湖岸に打ち付ける波が繰り返す動作は揺籠のよう。滑らかだった水鏡には小さな歪みが作られ、浮かんでは消え、浮かんでは消えた。 「……ふうん、まだ息があるみたいだね」 彼――ディスと名乗りしゲヘナ王子――は優雅に片腕を上げた。不意に背後の茂みがざわつき、五、六人の男が姿を現す。赤、あか、アカ。血と見紛う程の紅。彼らは短剣を腰に差し、文様に彩られた鮮やかな布を手首へ巻きつけていた。それは百合の紋章に似て、沈みゆく盗賊達と盃を分けた仲間であることを示していた。 「ったく、あいつら何処で遊んでやがんだ。ギルドのやつらが来るって情報が入ってんのに、のんびりしやがって」 「もう殺られてたりしてな」 「はは、まさか――」 軽妙な軽口が途切れる。男の一人が恐る恐る湖を指差した。 「なんだ、ありゃ……?」 紫紺色の水面。そこから天に向かって伸びる腕。見落としそうなくらい小さな泡が、水面に弾けた。 「まだ生きてるやつがいるぞ!」 真っ先に我に返ったのは頭領格と思しきひげ男。彼は部下を促すと急ぎ救出に取り掛かった。 その光景を、やや離れた場所で青年は傍観する。張本人ゆえ全くの無関心ではないがわざわざ手を出す程でもないのだろう。男達は仲間を抱え岸辺へ這い上がる。誰ともなく、鬼の形相で怒声を上げた。 「ギルドのやつめ! 討伐命令だ、そうに決まってる!」 「だが来るには早すぎる。勅令が出たのは昨日だぜ」 「あいつらなら何があったっておかしくねぇさ。ボスからして怪物なんだ」 頭領の台詞に誰も彼もが黙りこくる。まるで自分の発言に恐れをなしたかのように、ひげ男も口を一文字に結んだ。 「へえ。あのボスもずいぶん名が知れ渡ったようですね」 そこに別の声音が混じった。穏やかで、それでいて背筋を凍らせる平坦な声。睨め付けるような視線を浴びて、青年は予想通りの反応に喉を鳴らした。 「誰だ、と問いたいんでしょう? でも残念、君らに名を名乗るほどの名前はない」 ゲヘナは非常に整った顔立ちをしていたが、それが一層彼を冷淡に見せていた。藍色の瞳に残虐な色が輝く。にわかに、ひげ男は事の全貌を悟った。 「てめぇか。俺の部下をこんなにしたのは。タダで済むと思うんじゃねぇぞ!」 身を打つ低音。獣の咆哮にみしりと大気が震えた。だが青年にしてみれば、こんな狭量の男恐れるに足らず。ゲヘナはあからさまに馬鹿にした笑みを浮かべ、できうる限り柔和に、穏やかに受け答えた。 「ええ、思ってませんよ。いくら僕だって報酬無し〈タダ〉じゃあ仕事はしませんからね」 「はあ?」 大きく的を外れた返答に濁声がうわずった。すると青年は小馬鹿にした雰囲気で大あくびを一つ放った。 「ああ、今日は日差しが気持ち良いですねえ」 青年は恬然とした態度で重たい腰を上げると、心地良いテナーで張り詰めた緊張感を破った。 「やだなあ。そんな怖い顔ばかりしちゃ、汚い顔が更に汚くなりますよ?」 「きさま……調子づいてんじゃねぇぞ!」 頭領の怒声を合図に、盗賊団は揃って臨戦体制へ入った。先陣を切るはひげ男。相手は標的をゲヘナへ定めると素早く宙を薙払った。だが幾ら空を斬ろうとも透き通るような肌を微風が撫ぜるのみ。誰一人として傷を負わせることは出来ない。青年は相手に息を合わせて身を屈めると、反動を利用して強く地面を蹴った。剣戟の合間を縫い、素早く相手の懐へ入り込む――と、そのまま不潔そうな額へ人差し指を当てた。その途端、今の今まで意気込んでいた敵が泡を吹いて崩れ落ちた。 「調子づいてるのは、君達でしょう?」 温和な笑みと冷たい言葉が相反し、不気味なまでに空気が凍り付く。 「さぁ、次は誰?」 照りつける太陽の下、漆黒のマントが残酷に笑った。小さな子供が遊び半分で蟻を踏みつぶすように、人を消すことに何のためらいも感じていないようだ。 ひげ男はすでに事切れていた。信頼する頭領を失った部下は何が起きたかわからない。だが、この威圧感を放つ存在が次に自分達の生命を脅かすことだけは理解できた。しかし。彼らとて盗賊だ。落ちぶれた者なりの矜持はある。ならばここで敵前逃亡を図ることは許されようか――否、それは盗賊団の一員として誇る自らの人生の否定。頭領の恩を仇で返すのと同義。ここで背を向けてしまっては今まで育てて貰った頭領に顔向け出来ないではないか。恐怖がじわじわと心を蝕む中、盗賊達は決死の覚悟で武器を取った。そして自暴自棄と言っても過言ではない、激しい雄叫びを上げて駆け出したのだった。 「と、とと、と、頭領の仇討ちだー!」 一際高い雄叫びが蒼天に響く。彼らはゲヘナの退路を断ち、袋叩きにしようと各々の獲物を振りかざした。ところが、ならず者と青年とでは力量の差が有りすぎた。ゲヘナは統一なんてあったものではない攻撃をかいくぐり、一瞬の隙を突いてしなやかに跳躍する。そして宙で身を捻り、華麗な放物線を描いて湖岸に着地する。 紫宛の湖を背に、ゲヘナは鷹揚な仕草で片手を天へ突き出した。 「――『汝、知に沈め』。イオ神の前に平伏せ」 静寂にこだまする独唱。形の良い唇から淡々と紡がれる言葉が力を持ち始める。それは穏やかな湖面を震わせ、辺りへ不気味な静けさをもたらした。頬を凪ぐ恵風が、ぱたりと止んだ。――唐突に、嵐前の静けさを破る地鳴りが轟々と湖岸に鳴り響いた。 「君達の勇気に敬意を示して。滅多に見られないもの、見せてあげるよ」 不釣り合いな無垢な笑みと共に、水面が盛り上がった。水の塊は太陽の光を遮る程大きく膨張する。清爽な飛沫を浴びて煌めく草花は、これから始まる儀式へ祝杯を上げているかのよう。紫紺に輝く湖水は次第にある形を成し、しばしの後、完全な造形が出来上がった。 「とり?」 誰かが、ゲヘナにとってはどれも同じような人間だったが、掠れた声で呟いた。青年はゆっくりと口角を上げる。 「湖の水で作ってみたんだ。どう、きれいでしょう?」 「バケモンめ……!」 堪らず漏れた言葉を聞いてゲヘナは軽く首を傾げた。何も答えなかったが、「そう思いたいならどうぞ」とでも言いたそうに無邪気に笑う。彼が湖水の鳥を仰ぐと怪物は嬉しそうに奇怪な声を轟かせた。ギイィと名状しがたい鳴き声だ。長く聞いていると体内を巡る血液がぐるぐると逆回転を始めそうである。それはどこか長年油を差し忘れていた蝶番を連想させた。盗賊達は今度こそ怖じ気ついた。信じられようか。突如巨大な鳥が湖から現われたのだ。先程の決意はどこへ行ったのやら、彼らは武器を取り落とし、我先にと身を翻した。 美景で有名な観光地もゲヘナの手にかかれば地獄だった。男達は重たい、それでいて追い払おうとすると軽やかに身を躱し、また元の位置へすんなり落ち着くものが胸の内に広がりゆくのを感じた。 ――地獄と言うものがこの世に存在するのだろうか。この光景を見て是と言わぬ者はいるのだろうか。 怪鳥は急降下し、いたぶる様に一人ずつ襲い掛かった。腹の中は湖水で満たされている。ならば放り込まれた人間は鉄鎖を付けて湖へ沈んだのも同然。盗賊達は必死にもがいたが、水という大自然には手も足も出ず、一人また一人と息絶えた。 凄絶な悲鳴が絶えるまでどれほどの時を要したであろう。しばらくして静寂が訪れた。 「愚か。愚か。ああ、愚かで可愛い人達」 ゲヘナは息絶えていく人間達を見、歓喜の熱が湧き起こるのを感じた。ゆっくりと、暖かみを感じさせぬ藍色を横へ滑らす。その先で一人の少年が腰を抜かしていた。 「……ひっ……」 まだ子供と言っても差し支えない。茂みに隠れていたが逃げ遅れたようだ。少年は地獄絵図を呆然と眺め全身を震わせた。青褪めた顔色。異常に見開かれた瞳孔。全てが青年に対する恐怖を如実に物語っている。 「な、何で魔科学〈ヘカテ〉が……」 「へえ。この土地で本物のヘカテを知ってる人に会うなんて思わなかったよ」 穏やかな笑みの上に、ほんの一瞬だけ驚愕が浮かんだ。ゲヘナは紡がれた単語を反芻するように口の中で転がし、勇敢な子供へ歩み寄った。なんたって俺もレダンから逃げ延びた人間の一人だからな――少年が反抗的に呟く。 「だからこれも知ってるぞ……ヘカテを一人で扱える人間は王ぞ……ぐ……!」 極度の緊張か、はたまた恐怖ゆえか。喋々と口を動かす少年の台詞が最後まで紡がれることはなかった。 「口は災いの元だよ」 暗鬱とした響きを含み持つ声を合図に、子供の身体が宙へ浮いた。手品のようだが、そのような陳腐な種は一切ない。それはもっと高尚なもの。遥かに危険で難易度の高い神の御技なのだ。少年は空気――圧縮された窒素――に全身締め付けられ、苦悶の表情で呻く。 青年の顔はのっぺりとし、先から一度も消えることがなかった微笑が失われていた。どこか凄絶たる怒りの炎さえ感じる。美麗な男は何か考えあぐねた後、足元に散らばっていた剣を拾った。それを相手の喉元へと突き付け、狡賢くて清澄な、それゆえに人間味を感じさせぬ瞳を細める。 冷たい切っ先を直に感じながら、レダン出身の少年は苦笑を浮かべた。 「はは、まさか……こんなところで『カギビト』に会うなんてな」 少年は語意を強め、 「会うと分かってたら、ハナッから此所に来なかったぜ」 と、皮肉ったように口許を歪めた。 すると青年は無表情のまま言い放つ。 「でも、それは君だけの事情でしょう? 例えそっちから来なくても、君が盗賊と名乗る以上、僕と出会わないはずが無いでしょう」 この仕事は割りが良いからね。なんて冷ややかな返答に、死刑囚は自嘲気味な笑みを零した。 「それじゃあ俺の行く末は一つじゃないか」 少年は吹っ切れたように瞼を閉じて息を吐く。力なく両腕を垂らすと、悟ったような穏やかな笑みを浮かべた。美青年は「そうですね」と答える。それからゆっくりと腕を持ち上げ、無感情な剣を振り降ろした。 「イオ神よ――永遠の相の元に」 盗賊少年の最期の祈りが青年の心に小さく響いた。
≪ PREV|目録|NEXT ≫