真理を見つけたと喜んだのもつかの間、世界を形作る「普遍」ではなかったと判明する。我々は喜びと落胆を繰り返し、求めるものが遠ざかる姿に気付かぬまま、盲いた目で彷徨い歩く。 『異邦人の記録 紅き神都にて 第一巻』 * 知恵を得るほど望むものから遠ざかる。知らなければそれが世界のすべてと信じて生きて行けたろうに――流れゆく営みの中、関知可能な世界が広がるにつれ、不変と謳われる真理も絶えず変貌すると、ミハリス王子は先んじて理解していた。 防腐処理されながら虫喰いまばらな羊皮紙を一枚捲れば、若くして命を奪われた青年の嘆きが蕩々と連なる。一行一行、丁寧に読み上げるにつれ、乳兄弟と語らうような深い共感を覚えた。 その答えは王子自身にある。国是に背を向けてまで魔術の真理を求め、大陸中を巡った彼もまた、旅の間に得たものと言えば「探求者などという存在は、常に同じ悲劇を反復し、再現し、ついぞ疲れ果てて眠る」という虚しい事実だけだったからだ。 「はあ! ……次!」 雲居高き碧天に姪の威声が通った。大陸東域〈竜の背〉ソラス・ナ山脈以東は氷の息吹に覆われて久しいが、暖流と地下熱により年中暖かい公国では、ついぞ秋の立ち去る気配がない。宰相殿がコリンナの暴れっぷりに不平を漏らしていたのは昨日のことだったように思えれど、あれから半年以上は経っていた。 先の取引後、ミハリスは既に大枠が出来ていた草案を整え、傭兵ギルド試験運行にまでこぎつけた。かくて宰相殿から見事に報賞を勝ち取り、麗らかな小春日和の下、嗚咽が混じる訓練風景を眺めつ黄ばんだ紙面へ目を通している訳だ。 「ってーな。加減しろよコリンナ!」 「そんな生半可な打ち合いじゃ連邦国の魔術師と渡り合えないわよ」 「喧しい。毎回化け物相手を想定していたら身体が幾つあっても足りないっつーの。あいつらに生身で勝てるのはお前だけ!」 「ふーん。じゃ、連邦国に攻められたらお手上げってこと? バルド、あなた私より階級上だったわよね。副官って言っても大したことないのね」 「そうでーす。お前のように馬鹿力だけでのし上がってきた奴とちげーの。己はきちんと他の能力も認められて副官に選ばれたんで、叔父様って単語しか脳みそに詰まってないお前なんかじゃ、絶っっっ対に出来ない頭脳労働も任されてんでーす」 ――子供か。 聞き耳たてるミハリスは程度の低い口論に嘆息した。しかし悪態の応酬は止むことなく。コリンナはいかり肩の男を尚も鼻で嗤った。 「負け犬の遠吠え?」 「ガキの癖に言ってくれるじゃねーの」 「馬鹿にされて悔しいなら、全力でかかって来れば?」 「は? 上等だ!」 貴族を悩ませていた少女は頭一つ飛び抜けた戦闘員となり、ギルド長の寵愛を受けていた。鍛え上げられた同僚を一蹴し、言い負かすありさまは、とうてい齢十四に届いたばかりの乙女とは思えない。 再び這いつくばった先達をコリンナは端然と見下ろし、満面の笑顔で大振りの獲物を収めた。バルドと言う男、仮にもギルド長の副官である。上官相手に好き放題暴れる姪の姿を見るにつけ、根本的な部分の改善は出来ていないのだろうとミハリスは苦虫を噛み潰した。 「……バルド君、私の姪がすまないね」 「これはミハリス殿下! とんでもございません、御前お汚しして失礼致しました!」 副官を労わるや、思い掛けない叔父の登場にコリンナも面を輝かせた。 「叔父さま、いらしてたのですか!」 豊かな亜麻色が男を包む。あれだけ勇敢に振舞っていたのに、頬を上気させ小走りに近づいてくる姿は無邪気な少女そのものだった。 「頑張り屋さんの顔を見たくなってね。聞いているよ、依頼を次々こなしていると。ギルドの評判は上々だ」 「叔父さまが作られた組織だもの、全力で取り組みます」 誰も叔父さまの道を遮ることはできないわ、と周囲を威嚇する姪。 「私に言えたことではないが、コリンナ、あまり敵を作るものではないよ」 「いいえ、相手の出方次第です」 試験運用中に無理難題を押し付け、汚名を着せて大公の決定を覆さんという薄暗い力が密かに働いていた。しかし姪は前途多難なほど闘志を燃やす気質らしい。反対派貴族が妨害工作に走ればコリンナは悍馬のように解決に導く――すると容易に障害を乗り越えた小娘に苛立つ彼らはまた別の手を考える――その繰り返しだった。 父親譲りの負けん気にミハリスは苦笑を漏らした。それから汗一つかいていない姪の背へ手を回して共に鍛錬場を後にする。と、娘はすぐさま小脇に抱えた本へ意識を傾けた。 「初めて拝見しますね、その本。随分古いですけど宰相殿から頂いたのですか」 「うん。六番目の異邦人が書いた写しだ。お前が頑張ってくれたお陰だよ」 予想通り、公国当局が功労者に賜ったのはルチア公爵家が保管する貴重な歴史資料だった。求めていた魔術に関する記述は少なけれど、時代を動かす異邦人の言葉を直に辿るなど何者にも代えがたい体験だった。 「異邦人とは何ですか?」 「歴史の節目に現れる、金眼の異形のことだ」 するとコリンナはしばし沈思して花顔を曇らせた。 「金色の目って……私の母のような人のことですか?」 「いいや。彼らより遥かに強い力を持つ。能力は様々らしいが、未来視をする者、死者を視る者、過去を視る者。視ることに長けた金眼の異形をそう呼ぶんだ」 竜大陸の長い歴史の中、名を与えられた異邦人は七人。うち、古文書を残した六番目は竜の腹によくよく親しんだようだ。ミハリスが愉悦に喉を鳴らすと、納得いかないと言った面持ちで姪は更なる疑問を呈す。 「異形が本を書くのですか?」 「おや。彼らが元は人間だと言うことを忘れてはならないよ。だから本を執筆するなど訳ないだろう」 叔父の側に居ることこそ至上の幸せと見做す少女は、腰に抱きついたまま目敏く題目へ視線を滑らせて、 「一つは直近の公国史実録、二冊目はミアナハ神国の歴史書。……神国と言えば、公国以前にあった巨大国家ですね。資料庫もろとも焼け落ちたと聞いていたけど、一部は残っていたのですね。何が書かれているのです?」 「お前の興味を引く内容は少ないよ」 男は慎重に言葉を選び「ただ、この国から失われたものが幾つかあると分かった」と当惑の眉を顰めた。表立って口にしたくないのか、周囲の目を憚る様子にコリンナは逡巡した。 湖に浮かぶ島を削って作られたミアナハ湖城――大陸一美しい斜陽が残暑の熱気を以て烈火のごとく二人を照らし、上背ある痩身の影と、ふくよかに発達した少女の影を追い掛ける。 彼らが内扉を潜ると足音に合わせて丈長き闇が大手を振った。白亜の天井には水面をたゆたう幾条の閃きが複雑な文様を描き耽美主義者を唸らせた。廊下を進めば時折、召使いや貴族とすれ違うのだが、彼らは一様に亡命者へ手厳しい目を向けた。 叔父はつと少女の部屋で足を止め、藪から棒に「ギルドではフラーラ辺境伯の目に留まったようだね。彼は良くしてくれているかい」と尋ねた。 「はい。私の戦い方を褒めくださいます。精進を重ねればもっと高い立場へ取り上げてくださるとも」 「そうか。では少々困ったことになりそうだね」 コリンナはそのまま立ち去ろうとする叔父を引き留め、自室へ招き入れた。それから「何がお困りなのですか」と歯痒そうに問い掛けた。 「宰相殿に、姪を潜らせ、内部を探っていると勘繰られそうじゃないか」 「またそのお話ですか。有りもせぬことばかり疑われるのは亡命者の特権でしょうか。でも――ことこの状況に限っては、叔父さまの意に沿った事態なのではありませんか?」 茶菓子をほうばりながら姪はこともなげに言い放つ。息を飲み込んだ叔父と対照的に、軽快な動作で振り向いたのは少女だった。竜返りなどと大仰な異名に恥じぬ力を持った彼女は、色を失っている叔父を仰ぎ、分かっているわよ、とさも言いたげに頬を綻ばせた。 「ね。叔父さまが宰相殿とお約束した話って、こういう内容でしたね。姪を幹部にしろなどと高望みはしない。でも、結果に見合う正当な報酬はよこせ。叔父さまが私に関わるのは入った直後だけで、後は本人の努力次第。その能力を今後どう扱うかは配属された上官の判断に一任する、と」 姪が柔らかく笑み零す。 「報酬のことは、私を真摯に考えてくださった結果だって分かっております。本当に私は叔父さまに助けて頂いてばかりですね。でもね、だからこそ、これからお話すること、怒らないって約束して頂きたいの」 「……いいだろう。可愛い姪のお願いだ、約束しよう」 「ありがとうございます。やっぱり大好きですわ、叔父さま」 おもむろにコリンナの目が鋭く光り、ミハリスは身を固くした。 「あのね叔父さま、ギルドに配属されてから、ずっと変だなと感じていたんです」 「そう。どこらへんが納得出来ないのか教えてくれるかい」 直ちに落ち着きを取り戻したミハリスは煙管を取り出し、細長い息をほう、とくゆらせる。 「酷い、言い当てないといつまでも隠す気なんですか。まあいいでしょう。こういうお話です」 彼女は耳をそば立て、ティーテーブルの下へ入念に防音の魔導書を設置してから、次のような憶測をつらつらと述べ始めた。 「お偉い貴族さま達は、しっかり見張っておけば他国の小娘を内部事情に通ずる立場から遠ざけておけると信じていたのよね。もちろん私個人もこの国の政治事情には微塵も興味ありませんから、どんな上官が来たって不平不満を言うつもりはありませんでした。私を私として認めて貰えれば、ね。でも蓋を開けてみればどうです? 上官には誠実を絵に描いたようなフラーラ辺境伯が就任したわ。もちろんかのアルノルド・フラーラ辺境伯は大公殿下の異母兄ですから、一層の忠誠心が求められる国家直属軍事組織のトップとして彼ほど適任な人は見つからないと思います」 でも、と恩人である叔父へ探るような目を向ける。 「辺境伯の純真な人となりに当てられた人間は口答えしようなんて思えなくなる。そう、大公殿下は、立場は上でもフラーラ卿に逆らえないんです。そして、そんなアルノルド・フラーラ卿には、私が数ヶ月共に過ごして観察したところ少々困った癖があるわ」 「うん……公国には珍しい根っからの能力主義者だ」 戦争の最前線で公国を守護する辺境伯は、才ある者を片っ端から昇進させ、側に置くことを好んだ。それは公国の文化と相反する性格に思えるが、しかし長年国防を担ってきた実績があること、大公へ深い忠誠を誓う者であること、そして戦争の最前線で行われた人事など、首都で神に守られぬくぬく暮らす貴族にはなんら関係もないことを鑑みて上層部はこれまで口出しして来なかった。否、もしくは戦いを遠ざけたい者らが、辺境伯の部下は前線で生き、戦乱に命を落とせばいいと考えていたのも一つの要因かもしれない。 「私の能力を知る人なら、彼が組織の頭目になればその働きに目を留めるだろうと予想出来たはず。おそらく宰相閣下あたりは人事を考え直すよう大公殿下へ物申したんじゃないかしら。でも伯爵は一旦『やる』と言い出したら頑固です」 ――だけど、分からないの。 うらなり顔の中年男へ彼女は耳目を寄せた。ミハリス・ゾイは目鼻立ちこそ整っているが一様に蒼白い。初めて彼とまみえた者なら、この男は生まれてこのかた健康だった日など存在しないのではないか、と勘繰るかもしれない。 「叔父さま達が急ピッチで草案を作っていた頃、ソラス・ナ山脈の麓、遠い北東の前線地にいたフラーラ卿がどうやってギルド建設の話を知ったのでしょう?」 面倒な人事をされたくないから貴族達は組織について隠していたはずだ、と彼女はつついた。 「はは。面白い話だ」 コリンナは叔父が考えていたよりずっと野性的直感に優れた子だった。叔父は煙管の火を揉み消してから制御の効かぬ淡い巻き毛を掻き上げた。 何も言うことはない。すべては姪の指摘通り。宰相との密約がどうだろうと、辺境伯が一声あげれば最初の約束など反故にしてコリンナを幹部へ取り立てることが可能だ。そして幹部に入れば盟軍協定に即した「ある特権」が得られるのだ。 そこに某かの意図を感じたとしても――フラーラ卿へ誰が囁き掛けたにしろ――長官任を請け持ちたいと最初に進言したのは辺境伯自身なのだから、外野は濁った水を飲み込むだけで何も言えまい。蓋し心寄せる義兄の願いを叶えてやりたいと望んだ大公殿下の決断に誰が逆らえよう。 (人間は長年共にいると思考が似か寄ると言うが……) 悟られたのはミハリスの落ち度ではない。体の良い手駒にしていると思われては困るため、姪想いの良き叔父として十分用心して振舞っていた。となれば、コリンナとミハリスが共に過ごした僅か一年半、少女が穴の開くほど敬愛相手を観察した結果なのだろう。 会話している間にポットから湯気が立ち上っていた。茶請けの共にミハリスが沸せたものだ。沈黙を貫く叔父を他所に、姪は左手で三つ編みを解きながら、慣れた所作でティーカップへ熱湯を注ぎこんだ。 少女は見れば見るほど父親によく似ていた。美しい亜麻色の髪は父親譲り、素肌の繊細さはおそらく母親のそれである。細面なのに薔薇色の頬がふっくらとし、顎に掛けてきゅ、と柔らかな線の輪郭が引き絞られている辺りは、英雄王と称えられた父方祖父を彷彿させた。それゆえ政権転覆後に投獄された悲しい過去はあれど、祖父より連なる長兄の御姿こそ、ミハリスが焦がれ続けた面影だった。 刻んだ香辛料の芳香が鼻腔まで辿り着けば、観念せざる得ない事態になったと理解する。白歯で手袋をそっと取り外すと、姪の側へ屈み込み、豆だらけの手を握った。 「すまない。お前を利用するような真似をしたのは事実だ。私には否定する権利などないよ」 「謝らないで。私、叔父さまのために出来ることなら何だって嬉しいんです。だからこそ何でも話して欲しいと思っておりますのだけれど」 長い睫毛が健康的な頬へ影を落とす。その奥、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳を覗けど疑念の揺らぎは少しも見当たらない。彼女にとっての悲しみは利用されることではなかった。心を打ち明けてもらえないことだった――しかし手放しの信頼は、ミハリスがひた隠しにしてきた何かを傷付けた。 「叔父さまはただご自分の望みを教えてくれれば良いの。で、私はこれから何をすればいいのです。幹部になるだけですか?」 「……いいや。それは単なる通過点だ」 姪が意外にも賢しいと知っていればこれほど傍へ置かなかったのに。当人が聞いたら卒倒しそうなことを考えながらミハリスは柳眉を寄せた。 「白状しよう。お前に帝国間の渡航権を得て欲しい」 「盟軍に入ると言う意味ですか? 国際同盟軍である帝公盟軍に?」 「ああ。盟軍は帝国との自由通行特権で有名だ。知っていようが、我らが大公はギルド創設時、ギルド幹部に渡航資格を与える法律を追設した。お前も幹部に昇格すれば帝国と公国を自由に行き来できるんだ。そうなれば……」 法令を追設するよう進言したのは他ならぬミハリスだったが、むろん大公以外は知らぬこと。姪は腑に落ちぬ面持ちで、 「私が叔父さまの手足となって各地を回る。そういうことですね」と貌を曇らせた。 ミハリスは姪を連れ去るよりずっと前から考えていた。亡命者という肩書きは保護という大きな後ろ盾を得る。と同時に、やることなすこと当局に知れてしまう。大公にとってミハリスは大事な情報源だからだ。二人を狙う刺客に備えて常に護衛を配備されているが、それらは亡命者に嵌められた枷でもあった。 「でも、叔父さまご本人がギルド幹部として活動なされたほうが早いのではありませんか。なぜわざわざ立場の弱い私を使うのです」 「ははは。私は無理だよ、監視されている。大公殿はこれからも私から目を逸らすつもりはないだろうね。しかしお前なら、実力でのし上がったギルド幹部として振る舞い、確かな後ろ盾を得て自由に動き回れる。なにせお前は私と違って竜語を操る訳でなく、古代の知識も、魔術も使えない。公国にとってのお前は『第三王子の人質』以外に価値がない」 否、大公にとってはその価値さえないだろうが。なればこそ、コリンナに嵌められた枷は緩い。 「はっきりそう言われると少し傷つきます」 「だが真実だ」 「ええ、分かっております。私は連邦国の極秘情報も知りませんし、地位を確立しなければ亡命者としても危うい立場である自覚はあります。だからこそギルドで地盤を固められるよう機会をくださった叔父さまのお役に立ちたい。この気持ちに嘘偽りはありません」 盟軍とて出入り可能な地域は限られている。それでも、全く身動きの取れない現状より見込みがある。愛すべき長兄の娘は叔父の計画に宜いながらも、声を震わせて項垂れた。 「昔から叔父さまは魔術研究のために各地を転々と旅されていたと伺っております。ですから誰かを派遣して研究を続けたいというお気持ちも理解はできます。でも……だけど……」 ――私はあなたの代わりになれません。 コリンナはきっぱりと首を振った。どこに行っても喧嘩してしまう。そんな自分が一人で旅なんて出来るはずもなく、ましてや大公名代にも等しい盟軍など過大評価だと少女は俯いた。 先ほどまでの威勢はどこに、打ち明け話をされた彼女は酷く狼狽している。さりとてこの動揺は、身に余る使命を託された恐怖へ起因するものではない。痩身の男は見抜いていた。コリンナはこの一年間最も恐れていた「叔父の側を離れる」という事実を本人の口から聞かされたことで親鳥から引き離される雛のように震えていると。 恐れを察したミハリスは敢えてそこには触れず、人心地つくよう説いて、柔らかな前髪を払ってやった。 「気後れする要素はどこにもないよ。お前の父親は誰だい。あの名君リガス王太子だろう?」 私の愛する姪でもある、と添えることを忘れない。優しく顎を掬うと、潤みある瞳に可愛い仔狼を騙してかぶり付かんとする青白い毒蛇が映りこんでいた。 「あなた方は特別です。それに私は父上が身罷られて以来、連邦国ではまともな教育を受けておりません……血筋を引いているという事実以外、あなた方に並び立つ要素はありません」 まさかこの子は本気で亡国の思想教育を受けたかったなんて考えている訳ではないだろう。ミハリスは血の気が引く思いがして、 「たまさか滅びを助長する教育を受けられなかったからと落胆する必要がどこにある。コリンナ、大事なのは遺志だ。君が父親から受け継いだ、ね」 ミハリスが求めて止まないもの。父や祖国を見捨ててまで求め足掻いたもの。気が急き、恍惚としている己を認めると彼はばつが悪そうに息衝いた。 お前だからこそ出来るんだ。自信をもって約束しよう。それとも私のことを信じられないのかい? 信頼しきった子供の闇を突き篭絡する姿はさながら詐欺師である。やがて、不安に苛まれていた少女は、言葉尽くしに花を愛でる叔父の姿を真正面から見据え、御手柔らかに包まれた拳へ微かな力を込めた。 「そう、ですね……。忘れていました。私にとっては重要なことは、叔父さまに救われたこと、その一点だけ。どんな理由で私が選ばれ、救われたかは関係ないのです」 祖国に咲き誇る瑠璃花の芳香へと心を寄せる少女。なぜ自分はここに在るか、それを思い出した彼女は決意を固めたようだった。 「わかりました。お役に立てるなら喜んでご協力いたします」 「嬉しいよ。コリンナ」 小さくてまあるい頭を撫でてやる。初めて出会った時の彼女は薄汚れて、髪の毛もごわごわに絡み合っていた。重罪犯と同じ区画に投げ込まれても泥の下に隠れた白いかんばせは希望を失わず、鬱々とする囚人に混じって異様なほど輝いていたのをよくよく覚えている。そのコリンナも公国へ落ち延びて人並みに生きることを許され、身ぎれいな恰好で叔父と並び座るのだ。 白磁人形のような少女は、いずれギルドも戦争へ駆り出されるでしょうかと固い面持ちで尋ねた。国軍の代わりとして作るのだから当然だ。そう肯うミハリスの隣で彼女は見るからに落ち着きを失った。 無理もないだろう。並外れた剣戟能力を持っていようと、中身は未だ戦場に立ったことのない生娘なのだ。しかし保護者の予想に反してコリンナは、実は今までずっと楽しみにしていたことがあるのだ、と鬱蒼と笑った。 「でしたら戦場でアリアドネ伯母様にお会い出来るかもしれませんね。……あのね叔父さま。私ね、監獄に閉じ込められていた頃に、どうしてもやりたいことが出来たんです。それは――」 あの女王の首を、この手で斬り落とすこと。 「ふふふ……ああ、叔父さま。ほんとうに楽しみで仕方ありません」 斬首に強い執着を見せるのは、同じ方法で殺された父への想いゆえか。心は未だ純真と信じて止まなかった姪の新たな一面を知った叔父は、唐突に襲いかかる仄暗い虚無感に足を掬われた。蒼白な頬へ落とされた愛の口付けには、有るはずのぬくもりが失われている。 なぜ忘れていた? 生への活力が常に輝かしい希望とは限らないと。「幸福」などと言う形なく溶ける融解物は、幾ら与えられても白き繭に包まれ、忘却される。だが身に燻る負の渇望はたったひと雫で何十倍もの密度を持ち、頑健な石へ穴を穿つ。それは想像し得ない原動力を産み出すこともあるのだと、彼自身知っていたではないか。 「……っ」 亜麻色の少女に冷酷な女王の影が重なった。淡い不安へ共鳴するかのよう高らかに黄昏を染めるは獣の咆哮だった。 鳴り響く声に応えて脈動する左目の中、男はいつまでも膝を付いていた。