ネモフィラ渓谷リメイク前 第一章

第一話 亜麻色の君


 真鍮製のロケットを開くと大切に仕舞い込んだ亜麻色の絹糸が春一番に攫われていった。息つく間もなく、カイザの手から滑り落ちる金鎖。亜麻色の御髪と共に潜ませた写真は溶け出した雪代へ無残にも飲み込まれた。見る間に清水が染みこむ。気品溢れる容貌は原形も留めず、男の下を離れて遠き来し方へ過ぎ去った。
「ああ、なんてことだろう。あれしか持っていないのに」
 レダン国の首都へ注ぎ込む渓流は雪溶けを受けて濁流と化す。カイザは見るからに意気消沈して、酒瓶を片手に巨大モニュメントへ赴いた。平和を象徴する石碑前で籠詰めした瑠璃色の花弁を降り散らかす。五枚。六枚。十枚。萼からもいだ花生首こそ贅沢な酒宴の肴である。雲一つない快晴を映した青い花は雪原に際だって映えた。
 ネモフィラ――それは長き年月、唯一カイザの慰みとして愛で続けた花である。レダン国の象徴と言っても過言ではない。耐寒性に富み、小振りながらも戦火に散らぬ強き美を誇る。なればこそ地上の楔を解き放たれた友へ、生者からの弔いとして捧げたい。そんな男の安易な発想から、平和を誓った追悼モニュメントは芳しく埋め尽くされていった。
「あらカイザさま。そんなところでお酒を嗜んではお風邪を召しますよ」
「やあリリスじゃないか」
 しばらくして黒い軍服を纏った女が通りかかった。名を呼ばれた兵士は男の双肩にほとほとと積もる雪片をぞんざいに払う。リリス・ペディウォール。内乱時代のレダン国を出奔してカイザの腹心まで上り詰めた暗器使いである。彼女は海原のごとく青く染まった記念碑を認めると、ものありげに微笑んだ。
「またこんなことをして。主はレダン国に来てから足繁くこちらへ通ってらっしゃいますね。けれどあまり心配掛けないでくださいませ。大事な時期なのですから」
「ごめんごめん。分かっているよ」
 姫になにかあればどうするのです、と小言が積み重なる。リリスは「姫」のこととなると大袈裟である。カイザは曖昧に言葉を濁して守勢に入った。風が、草が、渓谷が、見渡す限りの自然がカイザの祖国と相異なる。雄大な自然に一体化した生活がこれほど厳しく、心地良いものと知らなかった。男は果てなき峰々に息をするのも忘れ、モニュメントが物語る過日を懐かしんだ。
「だけどリリス、オラクルはもう姫じゃないよ」
「存じ上げてますとも。私を誰だとお思いです」
「オラクルの侍女、兼、護衛だったかな」
「良く出来ました」
 三十年来見守ってきた彼女にとって、オラクルはいつまでも護るべき「レダン国の姫」らしい。カイザの妻はそれを不服としていたが、赤子の頃から仕える侍女の迸る愛情ゆえである。亡くなった先王に代わり私が骨の随まで愛すのです。と豪語するリリスは、姫呼びを死ぬまで止めそうにない。
「……ねえ、主。あの方や姫君の代わりが他におりませんように、カイザさまの代わりも誰も出来ないのですよ」
 やぶらかぼうに零れたリリスの諫言に肩が強ばった。素知らぬ顔で細針を突き刺すような物言いは彼女の常である。痛覚を通ったか判断つかぬ程度の、そのごく些細な痛みがふとした瞬間に大きな喪失を実感させるのだ。散りし亜麻色、貴い御髪の持ち主はいずこへ向かったか。レダン国が崇める女神の導きは蕩々と流れる知の海にカイザを溺れさせる。
「彼らの代わりに、なぜご自分がこの国にいらっしゃるかお悩みですか」
「いいや。それは僕を支えてくれた友や部下に対する冒涜になってしまうよ。ただ、ね。この国の礎となった人達が受けた仕打ちが、あまりに理不尽だと……そう物思いに耽ることくらいは許して欲しいんだ」
 思い馳せる人物は魅惑の女。かつてこの北土に独裁をしき、カイザの祖国や近隣諸国を脅かした麗しき女帝・アリアドネ。第一皇女であるにも関わらず、先帝である父親殺しに始まり、冷酷非道な行いは近年類を見ない。女帝の政策は決して悪ばかりではなかったが、少なくとも、生き残った王族の兄妹や侵略戦争を良しとせぬ穏健派にとって振り払うべき火の粉であったことは間違いなかった。
 被害者の一人である女はそれと分かる程度に苦笑した。
「あら。他国の方にそう思っていただけるのは嬉しいです」
 皮肉った声色にカイザはかっと頬が熱くなった。
「何いってるんだ。ここはもう他国じゃない。僕にとって、第二の故郷なんだ」
「まあ! その台詞、ぜひ姫に聞かせてあげてくださいな。君は僕の故郷だ、って囁けば真っ赤になりますわ」
「ばっ……。リリス、からかわないでくれないか」
「あらあ? もう降参ですか。つまらない人」
「君は僕に何を求めているんだい……」
 生意気な部下は今日も今日とてひょうきん者である。目尻に刻まれた笑い皺は積年の苦労をものともしない。彼らが民に王子や姫と呼ばれた日々は遙か遠く、レダン国を散々にかき乱した内乱も終結して十余年経っていた。
 カイザがこの地へ安住するまでに、失われた命は果たしていくつあろう。天上で糸を紡ぐ運命の三姉妹は気まぐれに蝋燭を吹き消し、取り巻く人間の人生さえ一転させる。オラクルやリリスと出会ったばかりの頃、カイザは己が戦争以外でレダン国へ足を踏み入れるなど夢にも思わなかった。なぜなら彼は隣国シザールの王子だったからだ。
「シザール陛下からご連絡は?」
「来てないよ。音沙汰ないってことは上手くやってるってことだし、大丈夫じゃないかな」
「ふふ。さすがはカイザさま。弟君のことをよくご存知で」
「あいつが一番苦労した時代、ずっと隣で見てたから。それなりに理解してるつもりだよ」
 もっとも、今あいつを一番理解しているのはあの愛妃さまだろうけど。とカイザは保護者面で柔和な笑みを零した。彼の故郷、シザール国は大陸一の軍事大国である。かの国はレダン国と山脈を隔てて隣接し、半世紀以上にわたる領土争いを繰り広げてきた。いわば天敵である。そして彼の弟は女帝に匹敵する冷血漢として、それが定められた使命であるかのように、着々とシザール領土を拡大していった。その戦功には王子だった頃のカイザも一役買っている。
 されど野心家の弟王子と相反し、柔和な兄王子がひた隠しにしていた疑念など誰が知り得よう。第一次大陸戦争が終結し、女帝によって再び世が乱れようと不穏な火種が燻っていた時代。カイザはあらゆるものを憂いていた。己の立場、戦争終結のために払った犠牲、祖国の存在理由。各地から入る報告を通して生々しい傷跡を目の当たりにした彼は、己が信じて築き上げてきたものが足元から崩れ落ちる感覚に吐き気を覚えていた。
「この石碑を見る度考えるんだ。僕がオラクルと出会った意味を」
「意味ですか。まさか運命だなんてつまらないこと仰るんじゃありませんよね」
「運命か……なんだか簡単に壊されそうでいやだな」
 でしょう、と腹心が逞しい拳を握った。
「早いものです。キース陛下の戴冠からもう二十年以上経つのですね。誰しも善と信じた神話が、恐しいものを携えて胎動し、カイザさまや姫の命を脅かし始めた忌まわしきあの時代に区切りがついたなんて今でも信じられません」
「君の言う通りだ。ついこの間のことに感じるのにな。もっとも……オラクルにしてみればすべての始まりはもっと前なのだろうけど、老いてから思い出すのは不思議と彼やオラクルが剣を奮っていた時代だよ」
 忌まわしくも、愛おしい日々だった。――そう、あれはまだカイザの妻がレダン国の姫と崇められた時代。切っ掛けはささやかな出会いだった。人間同士の欲がぶつかりあい、醜い戦いが繰り広げられる中、夜空を模した黒衣でさえ隠し切れぬ金眼のきらめきはひときわ生命力に溢れていた。 


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