ネモフィラ渓谷リメイク前 第一章
第二話 瑠璃色の花輪
「これより記念すべきキース=シザール国王、戴冠五周年の記念式典を開催する!」 悠然と進み出るはシザールの頂点。若き国王キースは目に掛かる黒髪を払い、不慣れな仕草で笑みを作った。 「みなのもの、無礼講だ。自由に過ごせ」 漆黒のマントが翻った。割れんばかりの喝采が国王の人気がいかなるものか示している。笑み一つ作るのにも苦労するような人間なのに、一体彼の何が人を惹きつけるのか。 「キースさまも立派になりましたねえ。なのに我が王子ときたら……」 葉むらをそよがす薫風――警備員に混じって手持ち無沙汰で歩く女の黒髪が好き勝手に跳ねた。兄王子の腹心リリスだ。彼女は暖炉からゆくりなく棚引く一筋の煙を仰ぐ。 ここはシザール。ロザリオ山脈西域に位置する大陸随一の大国。広大な領土に展開する河川を物資を積んだ船が絶え間なく往行する。それは遠く離れた都市間を連結し、シザールの北風を吹き飛ばすほどの活気を生み出していた。 三年前、戦争終結からちょうど二年後。この国には二人の世継ぎがいた。物腰が柔らかく人望厚き兄カイザ。無愛想だが心根は優しい弟キース。どちらも文武共に秀で甲乙つけがたかった。ゆえに昔は順当のごとく、兄カイザが跡継なのだろうと誰しも思っていたものだ。しかし現実とは奇なるもの。戦争において弟の目覚ましい活躍が父王の目に止まり、キースが王位継承者に指名されたのだった。 「主、国王に挨拶は済まされたんですか」 「これからだ。君も付いてくるかい」 「むろん参りますとも」 ――この機に乗じてあなたを狙う輩が増えるに違い有りません。 そんな小言を背に鉢植えを抱えるカイザ王子。真っ黒な腐葉土の中心にちいさな双葉が芽吹いている。耐寒性に富むこの植物は年中低温のシザールによく適しており、王子のお気に入りだった。 「……主?」 「なんだい」 「その鉢植えどうなさるんです」 「国王へ贈り物だよ」 「……嫌がらせの間違いでは」 嫌がるなんてまさか、と弟に関する時だけ断言する男。腹心は密かに「ブラコンですか」と毒づき、仏頂面で不器用な国王が最後まで面倒見切れるか疑わしいと渋面した。 * ダンスホールはシザールの繁栄に酔いしれる人でごった返していた。キース国王は真ん中で気怠そうに玉座へ座している。彼は兄王子の姿に目を留めると口元を緩めたが、大切に抱かれた鉢植えをを認めるや否や頬を引きつらせた。 「カイザ、来てくれたのか。だがその――その手にあるものはなんだ」 「贈り物ですよ」 「……まさかと思うが……ネモフィラの花じゃないだろうな」 キース国王の口調が尻すぼみになる。 「そうに決ってるじゃないか。いま手元に残っている最後のネモフィラを持ってきたんだ。僕の代わりにキースが育てて」 恭しい礼を添え、変哲もない植物を捧げる。冠を頂きに載せた弟を見つめるその目は慈愛と信頼に満ちていた。が、長い沈思の後。 「……いらん」 「受け取れよ、兄さんからのプレゼントだよ」 「いらんと言ったらいらん」 「わがまま言うなよ」 軍国シザールの世継ぎと、その兄。この場に似つかわしくない会話を見守り、腹心は肩を竦めた。 「なんだか不思議ですよね。周りは世継ぎ争いしてたっていうのに、兄弟間には何の不和もなかったなんて」 「そう?」 ラインハルト先王の両子息はまったく同じタイミングで首を傾げた。 「そうですよ。だって普通、血で血を洗う争いになるもんでしょう」 キースが手柄を立て、評価がうなぎ上りになる。それにより次期国王に指名され、カイザは不平一つ言わず結果を受け入れた。それだけだ。 しかしカイザを立てる勢力が不満を持たぬはずはない。そのためキースは、短い人生の内に幾度となく暗殺を図られていたが、直接――つまり兄弟の間には、憎しみや激情といった類は一切存在しなかった。それどころかむしろ、兄と弟は共に喜びを分かち合ったほどだった。 「花くらい自分で育てろ。なんで俺が育てるんだ。解せん」 「あはは、そういうと思った。場所を変えて説明するよ」 「……仕様がないな。俺の部屋にはリオンがいる。別の部屋で聞く」 するとカイザは、にこおっと満面の笑みを浮かべ、 「ん〜じゃあ天気良いしテラスに行こっか。僕がリオンちゃんに近付くと、キースったら怒るしね〜」 「な……っ」 「ま、それだけ愛が深いってことだろうけど」 キースは柄にもなく頬を赤らめた。彼が戴冠した翌年、国王は麗しの愛妃リオンを娶った。彼女はアイリス国王の末娘で事実上政略結婚である。酷く純真な姫君は国民に歓迎されたが、しかし実のところ、キースが王位継承にこだわったのは全て彼女の為だったと言う。だが道のりは厳しく、ひどく遠かった。承知の通り第一継承者の兄が健在の状況下において第二継承者が王位を継ぐのは至難の技。カイザのように兄が優秀ならば尚更のことだが、キースはそれをやり遂げた。背後に並尋常でない努力があったことは間違いない。その姿を真横で見ていたからこそ、兄はすんなりと帝位を譲ったのだった。 カイザは弟をテラスへ連れ込み、優雅に腰掛けた。ネモフィラの花輪が風にそよぐ。王妃が作ったのだろうか。瑠璃色が快晴に溶け込んでいた。 「で、どういうことなんだ」 「うん、それなんだけど。少しの間旅に出ようと思ってさ」 「……は?」 案の定、キースは目を剥く。「空」色の瞳。爽快な目へにこやかな兄が映り込む。カイザの表情は子供が何かをねだる様によく似ていたが、ただ質が悪いのは、相手が了承さぜる得ないことをあらかじめ知ってることだ。 キースは眉を寄せ、 「理解に苦しむ。何故いきなり旅なんだ」 と不満そうに問い掛けた。すると柔和な王子はこともなげに理由を告げる。 「だって見聞を広めるには旅が一番だろ。最近はキースとリオンちゃんも上手くいってるみたいだし、僕が留守にしても大丈夫そうだなって」 「しかし、一人でか? 危険だ。誰か共に――」 「あー大丈夫大丈夫! 僕の顔は外じゃほとんど知られてないし、こう見えても腕は立つこと知ってるだろ。じゃ、出発は明後日だから」 弟は存外心配性のようだ。カイザはひらひらと手を振り、逃げるように背を向けた。そして部屋を出る間際。先程の花輪を捕らえる。青いネモフィラを一輪。優美な仕草で抜き取り鼻孔へ近付けた。 丸みを帯びた花は今朝の会話を呼び覚ます。レダン王国のことだ。シザールと同等、またはそれ以上の軍事力を誇る大国である。だが十三年以上続く内乱で相当財政がひっぱくしているそうだ。七年前には女帝の独裁が開始され、かつて内乱を指導していた右派は徹底的に弾圧されたと聞く。言い換えれば、レダン傭兵制を支える軍事的主力を自ら潰しているも同然。同様に王家直軍も疲弊している今他国に攻め入られるのも時間の問題だ――。 そう、大臣が噂をしていた。 「レダン王国……かあ」 レダン王国はネモフィラの有名産地。と同時に原産地であり、原生のものは非常に美しいと評されていた。シザールにあるのもレダンから輸入したものだ。 カイザは昔からこの青い花を愛していたため、第二の故郷が消滅してしまったような、一種の錯覚に陥った。レダンに攻め入るのはシザールか、はたまた別の国か。人間の欲はとどまることを知らない。両国はいずれ何かしら関係をもつだろうと強く直感していた。 残った花輪を壁に飾り、カイザは静かに身を翻す。 ――同刻。 追い掛けて来たキースの隣りで、ボタリと花輪が落ちた。
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